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教育のデジタル化と東京の都市開発

 先日、教育ITソリューションEXPOなるものに足を運んだ。数年前に初めてその教育の様々なデジタルツールの見本市とやらに出向いたデータが先方にあったのか、やたらと当方に来訪を催促する電話があり。仕方なく予約し、現地に赴いた次第である。前回は、東京ビックサイトであったが、今回は、東京オリンピックで使用されるため、東京国際展示場の青海展示棟となった。
 
 5月14日の金曜日の青海展示会場は、もうITやら、デジタルやら、e教育やら、こてこてのアナログ人間の私としては、近未来の教育ツールの世界に足を踏み入れた感がある。私の日常とは別世界を垣間見た思いがした。
 
 この展示会場には、私のように、デジタル教育に真っ向反対している者など出向こうはずもない。この点、せっかくだからと興味本位、怖いもの見たさ、敵地巡察との覚悟でゆりかもめに乗り、現地に足を下した次第である。会場内に入るや、こてこての黒板、10名未満の対面授業、そしてノートを取らせる方式で、塾長自身が、ガラ携主義者で、ワープロで教材プリント作成している立場からすると、この展示会場は、幕末の武士がアメリカの摩天楼を目にした気分、また、明治初期、パリ万博などに出向いた日本画家のようなメンタルに似ているような気がした。敵地、文明先進社会へ<デジタル何するものぞという心の鎧>を身にまとい、各ブースを見て回った。
 
 「今や、いや、数年後、小学校から高校に至るまで、教育というジャンル、そのコンテンツは民間のこうしたハイテク企業に席捲されるのでは?学校の教師は、その扱い方のみを指導する立場になれ下がるのでは?」といった感すら抱いた。これは、杞憂ではない。それは、もう塾・予備校といった教育産業でその進化進歩は加速している現実が教えてもくれている。その典型的な例は、三大予備校(駿台・河合・代ゼミ)の一角でもある代ゼミが東進ハイスクールによって映像授業というデジタルを武器にした手法で下克上され、今や、駿台、河合、東進の予備校御三家となってしまったことに証明されてもいよう。また、令和という時代は、その東進ハイスクールすら、リクルートという非教育ジャンルからの参入により、特に、スタディサプリという存在で、映像授業の立ち位置がおびやかされようとしている。この展示会場には、駿台はブースを開設し、デジタル化教育で自身のスタンスを保持しよとする必死の思いが伝わってもきたが、河合塾のブースは見当たらなかった。また、学習参考書系大手の桐原書店やGakkenも、英語教材の大学生対象のものをアピールしていた。彼らのお得意様でもある中高生の教材ではなく、大学生向けのものを開発し、大学関係者にアピールしていた。
 
 アマゾンが街中の書店を、ゾゾタウンが大中小のアパレルを、ユニクロが百貨店・量販店の衣料部門を、業界から駆逐させんばかりの勢いである。公立私立を問わず、デジタル化の波が、近未来、学校の教科・教材をすべて現場教師から奪ってしまうかのような幻覚幻影を見る思いがした。青海展示会場内の活況からそう伝わってもきた。想像であるが、商談成立は意外にも少ないのではないだろか。その業者は、実際に学校に出向き、理事長・校長などが直接商談を成立させてもいるのが実態でもあろう。学校担当営業係が、現場でセールスアピールするのがせいぜいでもある。
 
 1時間程度、会場内を見学して、「いや~あ!ずいぶんと教育のハイテク化が進んだものだ!」という感慨を抱きながら、ゆりかもめのお台場海浜公園駅に戻る。構内(ホーム)は、鳥(ウグイス)の囀りがBGMで流れているのが、どうも気になったが、すぐにその疑問は氷解した。ホームからの眺め、駅前は高層マンション、遠くにはタワーマンションやオフィスタワーが見渡せるのである。この東京臨海地域は無機質な景観である。よって、利用者の心を鳥の音声で和ませようとする人工的な企てであろう。このエリアに住んでいる家族は、休日は、地元のショッピングモールで、映画はネットフリックスで、子供の勉強は、パソコンかアイパットで、それぞれ済ませていう状況が、この不便なる(?)エリアから想像もつく。まさしく、青海会場にいたIT教育産業のお得意様が、この臨海副都心の住民たちでもあろう。
 帰りのゆりかもめの車内からの東京ベイエリアの眺望は、まさしく、高層ビル、タワーマンションの乱立である。東京湾を高層建築物で取り囲んでいる観すらある。私が子供時代に、手塚治虫のマンガで見たような近未来都市と変わらぬ景観である。それが、眼前に聳え立ってもいる。「ああ、さっきまで見ていたハイテクの教育ツールとやらが、国家、社会、日常レベルのインフラで実現されてもいるな~!」といった感慨に捉えられた。車内の客は、通勤客か、展示会場帰りの人かは知らないが、皆、スマホを見つめたり、いじくっている。私だけが、窓外の激烈に発展した東京の姿に違和感を覚えながら、街並みの人工的側面に、何らかの不自然さを感じながら眺めていた。子どもの頃は、手塚治虫の描く未来都市に心躍らせながら、見入った気持ちが、いざ、その社会を目の当たりにすると、恐怖感すら湧き上がってもきた。子供のメンタルは、怖いもの知らずであろうか、適応力の若さでもあろうか、躍る心のベクトル(デジタル)は未来へと向く。一方、中年以上のそれは過去(アナログ)へと向かう習性があるのであろうか。確か、NHKで1987年放送された<文明のキーワード>と題して、作家安倍公房と若き養老孟司氏が対談していた番組で、あるホテル(赤坂プリンスホテル?)か、ビルであろう、二人の対談部屋からバブル絶頂期の新宿副都心の高層ビル群を安倍公房が眺めて、私と同じような感想<恐怖感>を吐かれていたことを思い出してしまった。
 
 ゆりかもめの車内からは、東京オリンピックトライアスロンの会場らしき観客席が寂しげに見える、コロナ禍であろうか、沿線の様々なショッピングモールには活気がない、ほとんど人影は見当たらない。高層マンションも、余り住んでいる人の気配も伝わってはこない。港区立の小中一貫校お台場学園の校庭には、体育の時間であろうか子供たちが見える。これは、あくまでも個人の見解ではあるが、こんな所で子供など育てたくないと改めて思った。子供を育てる必要条件は近隣に神社・仏閣があること、次に十分条件として、徒歩圏内に商店街があること、この二点は譲れない。台風19号だったか、そのせいで武蔵小杉のタワーマンションが数日から1週間くらい水道や電気も止まり、数十階の自宅まで階段で昇らざるをえなかった事が思い浮かんだ。この臨海副都心の居住空間を眺めて、‘第2の関東大震災’でも起これば、さらなる不便を住民に来すことだろう。また、オリンピック村の豊洲の選手対応後のマンションを購入する人の気持ちが分からない。ゆりかもめの車内広告ではあるが、「豊洲に2教室、品川に1教室、開校!」という早稲田アカデミーのものが目を引いた。いかに多くの住民をこの高層マンション群に惹きつけられているかの証拠でもあろう。まあ、東京23区にお勤めの‘エリート’お父さん、そしてベイエリアの夜景に憧れる‘教育熱心’お母さん、その一人っ子のデジタルネイティヴにターゲットを絞った塾の宣伝であろう。
 
 ゆりかもめが、レインボーブリッジの下に差し掛かると、東京タワーが見えてくる。遠くには東京スカイツリーも見える。もちろん、沿線は、高層オフィスビル群の間を縫うように、ゆっくりと首都高と並行し、脇を走るトラックに追い越されるくらいのスピードである。芝浦ふ頭駅を過ぎた頃だろうか、もう数百メートル先に、こげ茶色の世界貿易センタービルの姿に気が付いた。あまりの存在感のなさに戸惑った。また、回りの高層ビル群に埋もれてしまって、気づき損ねるほどの姿で立っていた。大学時代に超可愛かったゼミの女子が、50代で再開し、見るも変わり果てた容貌で、気づかなかった経験と同じものがある。
 昭和40年代、日本一の36階の霞が関ビルを凌ぐこの貿易センタービルの40階が、どれほど高く見えたことだろう。京王プラザホテルはもちろん、新宿副都心の高層ビル群などなかった時代、東京タワーと並んで撮られた写真など印象深く記憶にある。また、その浜松町駅から羽田まで父と初めて乗った東京モノレールにどれほどわくわくしたことであろうか、その感慨は、何故か、このゆりかもめには湧いてはこない。私が年を取り、感性が萎えいでしまったのか、また、昭和という時代の<文化と文明との両輪の塩梅のよさ>なのかは知らないが、どうもこの令和の時代の、東京の都市開発の進度に私は馴染めない、ついてゆけないのである。そうだ、この違和感、嫌悪感というものは、あのさっきまでいた、ITソリューションのハイテク器具の展示会場でこみあげてきた戸惑い、居心地の悪さと全く同じものであると、新橋駅に着いたときに合点がいった。
 
 新橋から東海道線で横浜に着くと、ダイヤモンド地下街の有隣堂書店、それも参考書売り場に立ち寄った。昭和の時代なら、旺文社、学研、文英堂など老舗参考書の本、そして、予備校が出している参考書の類しか書店にはなかった。今では、中経出版、KADOKAWA、Z会、東進など出版社の群雄割拠の時代である。コンテンツはもちろん、配色、レイアウト、図解、イラストなど、平成後半になると、飛躍的に進歩を遂げた。この有隣堂の参考書のコーナーには、学校帰りの高校生が多数、購入するのか、下見なのか、散見される。青海展示会場では、あんなにも教育ツールのデジタル化が進んでいる光景を目の当たりにしたにもかかわらず、これほど多くの参考書の類が出版され、現に、高校生などは、私の教え子も含め、アナログという紙の参考書・単語集に拘泥している様を見ると、何か、ほっとする思いがしたものである。
 





 

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