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プロ化は民営化、そして国際化という負の妄想を捨てよ!

 先日プロゴルファーのタケ小山氏が、朝の番組(東京MXテレビ:モーニングクロス)で、ラグビーのプロ化がどうもうまく話が進んではいない状況に言及し、ここ最近の何でもプロ化にすればいい風潮に疑問を投げかけていた。
 
 そもそもプロとは、日本においては、大相撲が国技として最初にあった。そして戦前に、プロ野球とプロゴルフが始まり、戦後には、プロレスとプロボクシングというものがメジャー化していったそうである。戦前は多くのファン、いわゆるチケットを買って観る観衆という存在が“プロ”を“プロ”たらしめていたが、戦後は、メディア、特にテレビという放映を通してさらに、“プロ”をワンランク上の“プロ”たらしめる存在に格上げしてもきた。戦前からあるプロ野球は、戦前は大学野球に押され、一種日陰ものの存在でもあったが、長嶋茂雄と日本テレビの存在が、国民的スポーツとして、相撲に次ぐ準国技に育て上げていった。
 昭和の時代は、プロと言えばプロ野球、プロレス、プロボクシング、少々大人向けのプロゴルフぐらいしか存在しなかった。
 これが、平成に入るや、Jリーグというものが誕生し、プロサッカーとして、日本のサッカーをワールドカップに出る、そしてベスト16にまで進めるレベルにまで押し上げた。今や、少年のやるスポーツは、数では野球を上回る勢いになっているし、女性にも、また男性にも好きなスポーツはとの質問に「サッカー!」と応える人が野球を上回るまでになっている。昭和の庶民のスポーツの代名詞が野球であったのが、平成の市民のスポーツ、それが今やサッカーになってもいる。
 このサッカーのプロ化の成功に、様々なスポーツ界では、二匹目のドジョウ、三匹目のドジョウと狙ってか、BリーグやらVリーグやらTリーグなど様々な団体がプロ化を推進してもきた。個人レベルでは、体操の内村航平やマラソンの大迫傑など、個人レベルでもプロを標榜してもいる。つまり個人でもスポンサーがつきその広告塔になれば‘プロ’と自称もできる。しかし、寿命は短い。
 その流れと、Wカップでの大成功なのか、ラグビーもプロ化に向けて話が進んでいる模様であるが、スポーツジャーナリストの眼も持つタケ小山氏が、その雲行きの怪しさにコメントしていた。
 このブレーキは、コロナ禍による、観客動員と放映権の目測外れであるそうだ。彼が語ってもいた、日本に従来からある実業団スポーツ、バレー、ラグビー、バスケットボールなどなど、これらはアマチュアでありながら、これまでそこそこ機能してきた。この実業団と会社の関係は、日本の中高の学校と部活の関係に似てもいる。不自然とも言えようが、そうした、実業団スポーツが片足をプロにも踏み込んでいる組織は世界にはないそうである。「それを全てが全てプロ化にすりゃあいいっていう問題でもないでしょう!」とスポーツのジャンル全てをプロにする風潮に問題を提起しているのである。
 
 このスポーツのプロ化という問題は、官営の国鉄、電電公社、専売公社を中曽根内閣ですべて、JR、NTT、JTと民営化したことに、政府と国民は味をしめて、その後、何でもかんでも、民営化は善という風潮を作った。その典型が、郵便局の郵政民営化である。更に、国立大学の独立行政法人化である。これらは、小泉・竹中コンビによる出来損ないの民営化である。近年では、水道局の民営化である。これなんぞは、宇沢弘文流に申しあげれば、愚策以外の何物でもない。
 
 サッカーのプロ化に味を占めて、我も我もとその後、プロ化はいいものだと名乗りを上げる組織人、また、中曽根内閣の三大民営化に毒されて、その後、政府が様々な領域において“民間の力”に委ねようとする風潮を澎湃と湧き上がらせてきた責任は重い。
 
 歴史を持ち出すまでもなく、江戸時代、8代将軍吉宗の享保の改革に右へ倣えではないが、その後、寛政の改革、天保の改革と、劣悪なる改革へと質のレベルダウンがもたらされたことは、スポーツの改革(プロ化)でも、自民党の改革(民営化)でも同じ運命のルートをたどってもいる。
 更に加えれば、共通一次試験改革、センター試験改革、入学共通テスト改革(民間試験委託挫折)しかり、段々と改革が迷走し、改悪になってきていることは一部の有識者が指摘する通りである。
 
 スポーツのプロ化、国営の民営化、これと同じ論理で、変化しているものが、大学改革(国公立の独立行政法人化)や試験制度の見直しといった範疇でもある。
 
 3月17日の日経新聞の記事であるが、今年度(2020年)の受験者数が、2割ほど減ったのが秋田国際教養大学であり、2割以上減ったのが早稲田の国際教養学部だそうだ。この二つの大学は、1年海外留学が義務付けられている大学が、あだとなったようだ。これらの大学の売りは、1年間海外にいられるという特典が魅力でもあったからであろう。その魅力が欠落したのが一番の要因でもあろう。こうした国際と名がつく大学は、しばらく、数年は留学の一年を国内で外国人との“英会話”で過ごさねばならなくなる宿命を背負わされたことになる。インバウンドの海外旅行者を見込んだ観光業者やANAやJALのように、コロナ禍をもろにうける学部ではある。
 こうした国際という冠をつけた学部が、じつは“グローバル化というお得意さん”目当ての学部と言えば少々意地悪かもしれないが、そうした学部に進む学生は、内発的にグロバーバル精神に足を踏み込んでいるのか、若干疑問符がつく。本当に内面でグローバル化する、それはむしろインターナショナル化といったほうが適切かもしれないが、真の国際的見識を身に付けようと思えば、別に、経済なり、政治なり、文学なり、従来の専門学部で、その専門性を深め、自身で、大学のカリキュラムなど頼らず、留学すればいいだけの話である。ちょっとばかり4年間の内、1年は大学が決めてくれた海外の大学に“使える英語”を磨くために単位をくれる、‘その国際なんちゃら’という学部に進む、その心根の底の浅さなどたかが知れたものである。
 
  • 野球でもサッカーでも二十歳そこそこでプロとなり、そして十年、二十年という長期にわたり伝説を築き上げてゆく。それが、プロである。ゴルフにしろ、テニスにしろである。でも、オリンピックアスリートに関して言わせてもらえば、メダリストになることが、ある意味、そのジャンルの“プロ”になった証である。表彰台に立った時点、それがピークである。その後、政治家になるもの、タレントになるもの、ワイドショーのコメンテーターになるもの、そのメダルの威光で飯を食わせてもらっているメダリスト、それもメダル年金者“プロ”である。だから、JOCはもちろんIOCもアスリートの老後の生活に腐心せざるをえない状況が、東京オリンピック開催へと中央突破する蛮行に出た要因の一つでもあろう。
 なお、このオリンピックとやらに“権威”を与えたのがヒトラーであり、“ビジネス”化したのがサマランチでもある。今や、その<モンスター組織>の正体に大衆はコロナ禍で気づき始めてもいる。






 

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