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デジタルは客観性、アナログは主観性!?

最近、「客観と主観とは?」といった命題が、ふと頭に浮かんでくることがある。一般的には、前者は、いい意味で、後者は、あまりよろしくない意味で使われる傾向がある。
特に、受験国語のジャンルである。大学受験現代文なぞもやたら論理、論理力と声高に叫ばれてもいる。共通テストのコンセプトも、思考力、表現力、そして、この論理力といったものが三本柱である。論理は、主観性を不要することは、私の国語教育体験上痛いほど感じてきた。
では、この客観性と主観性というものを、よく考えてみると、このご時世の中、前者が、デジタルを膨張させもし、後者が、アナログの拠り所ともなっているような気がしてならない。
デジタルに依拠した客観性なるものは、忘我というか、自我という人間本来の主体性を奪っていやしないかという疑念を感じずにはいられない。このデジタルに拠るネット社会において言葉、文字という本来アナログ的文化の表徴が、希薄となり、その思考のツールとしての言語が、弱体化しているという懸念でもある。濃密なる小説ではなくライトノベル、ライトノベルよりアニメ、こうした活字文化から映像文化へのシフト、逃避も、悪い意味での客観性を招来しているように感じる。昭和の時代、アニメが発展途上の社会では、マンガが主体的映像の想像力の、ヒントであり、源ともなっていた。それが、皮肉なことに、アニメという先進の映像社会となるや、積極的想像力が希薄になっていったようでもある。
デジタル社会の進化によって生まれた、見たくれ客観主義とやらが、アナログを母とする、いい意味での主観性を放逐してしまい、目に見える情報という幻影が、フェイクニュースに騙されやすい大衆気質をさらに悪化させてもいる。
現代は、デジタルという肉食ばかりである。アナログという野菜を一切とろうとしない、非健康体質の脳髄となってしまっている。その病んだ脳を、<スマホ脳>ともいい、その脳を有している症状を<スマホ中毒症>という。そして、その麻薬摂取者を、<スマホ廃人>ともいうのである。その予備軍を<ネットバカ>とも称する。その馬鹿さに染まりたくないと気づいてきた未成年を<スマホを捨てたい子どもたち>ともいう。
デジタルデトックスは、紙の書籍による読書が良き薬である。知的主観性という意義を忘れてはいけない。アマゾンなんぞでは本を購入してはいけない、書店で本を買うべきである。<本屋を守れ>である。本屋は、良識ある主観性を鍛えてもくれる。美術館は、主観的美意識を育ててもくれる。
※以上の<――――>は、それぞれ新書の『題名』である。

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