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藤井聡太の強さとは?

人生は選択の連続である(シェイクスピア)
NHK特集「4冠藤井聡太」(2021)を観た。将棋という競技(勝負)は、改めて人生の縮図でもあると考えさせられた。それは、一般庶民から大手企業の経営者に、また、アスリートから研究者に至るまで、次の段階に進む際、あるいは、明日をどう生きるかといった問いと向きあう存在の宿命のようなものである。
昭和から平成前半まで、谷川浩司と羽生善治との対戦では、従来の棋譜と脳裏に思い描ける最善手の模索、そして心理戦が対戦の要諦でもあった。しかし、豊島将之・藤井聡太世代になると、そこにAIという人工知能‘棋士’を無視しないではいられなくなった。時代である。史上最年長で名人ともなった米長邦雄などが、けなげにも、自身のさらなる向上を目指し、息子とも言える、若い世代(羽生善治など)に鍛錬としての対局を請うた時代とは隔世の感がある。
自然科学の世界も、分子、原子、電子、素粒子、クオークと未知の領域へと進化しているように、10の60乗もの差し手のある世界では、理論物理学者の脳内と同じ、非人知の世界にまで、対局同士の戦場を神の目線で見つめる知力を有するか否かが、将棋界の覇者ともなる命運を分けるのであろう。その高見からの知性を、羽生善治は、自著で<大局観>とも語っている。だから、彼だけが、10年以上前に、AIはプロ棋士に勝てるか?とう問いに、他の殆んどの棋士は、当分、AIなんかはプロの棋士には勝てないだろうという回答に盾突くかのように、数年でプロ棋士はAIには勝てなくなるであろうと断言した慧眼に証明されてもいよう。ここが、藤井聡太以前の“平凡なる”プロ棋士と羽生善治との決定的な違いである。因みに、人間棋士とAI棋士とを、将棋の神目線で俯瞰できる能力、それを大局観とすれば、この藤井聡太にも、一種、“神目線”があるように、感じられる。まさしく、羽生善治の後継者の証明でもある。
米長邦雄までの棋士の世界が、ニュートン力学の領域であるのに対して、平成初期から7冠を達成した羽生将棋はまさしく、アインシュタインの量子力学ともいっていい。そして、今や、その現代量子力学をも脱構築する勢いなのが、前竜王豊島将之九段を4連勝で打ち負かした藤井聡太である。
豊島は、一切プロ棋士との対局を避け、AIソフトとばかりに対局をし、鍛錬し、実力を養ってきたという。彼には、AIが、ある意味、先生・師匠、そしてライバルでもあった。藤井もAIソフトに対局する日々を送る、その鍛錬を怠らない点は共通してもいよう。ではどうして豊島が、竜王戦で4連敗という絶対的敗北を期したのか?
恐らく、素人の想像的仮説である。それは、AIという存在に、豊島は、恐れを抱き、その怖さから他の棋士に抜きんでる定石を学ぼうと必死であったに違いない。一方、藤井にも、当然AIへの恐怖があったことであろう。しかし、藤井には、もう一つ、将棋の神へ畏れという謙虚さがあったように思う。AIも、所詮は、将棋の神の手のひらに載っている怪物に過ぎぬという思いである。そこが、<AIから学ぶ豊島>と<AIと学ぶ藤井>のメンタルの違いでもあったと断言できる点なのである。それは、<デジタルのみの戦略>と<アナログをも加味したデジタル>との差でもある。それは、竜王戦、名人戦でも、あくまで人間と人間との対局だから、そのアナログ度を有しているかどうかが、紙一重の戦いの世界では、重要となるのである。巌流島の佐々木小次郎と宮本武蔵の命運を分けた凡人にはうかがい知れない領域である。
このNHKの番組内でのことだが、豊島は、竜王戦で勝つとかタイトルを失いたくない、どうしたら勝てるか、そうメンタルを吐露していた。しかし、藤井は、どうしたら棋士九段の領域でもなく、AIの棋譜のデータの世界でもなく、将棋の神と会話し、そして豊島の背後にいるその将棋の神と対局していたように思われる。その神との対話が、将棋を実況中継している八段以下のプロ棋士の解説者には、“なんだこの手は?”という呟き、“凡棋譜”と映る所以でもあったであろう。この、将棋の神とどれだけ会話ができる能力、いや、天賦の才を、洞察力という。この真の洞察力を有してもいた棋士、それが、升田幸三や羽生善治でもあった。その証拠に、近年、趣味で、スマホで気分転換か知らぬが、羽生同様に、この藤井もチェスを始めたらしい。こうした棋界の天才を“余裕派の棋士”と呼ぼう。
真の宗教家は、仏教徒であろうと、一神教のキリスト教やイスラム教を決してなおざりにしない、無視しない、否定も当然しない。むしろ或る意味で、謙遜の念で、あらゆる面を尊崇してもいる。それは、人間の窺いしれない、認識できない領域への畏怖の念を持ち合わせているからである。藤井や羽生も将棋という世界にいながらにして、チェスという世界に礼という学びの念を失わない余裕がある。その、心の余裕というものが、実は、どのジャンルであり、失ってはいけないのである。その境地への近道が、茶道であり、また、禅でもあることに近年の欧米のビジネスマンは気づいてもきている。

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