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大学附属校生に共通テストをやらせたら?(笑)

 昨年末、弊塾に初めて慶應女子高の1年生が入塾してきた。これまで、男子の塾高生や中学の中等部や普通部の男子生徒は十数名いたが、女子生徒は初めてである。
 入塾の動機が、女子ながら少々勇ましい、ボーイッシュな回答であり、まっとうなものだ。

 「この英精塾は、大学受験生を対象とした塾で、君みたいな、大学が上に控えて、少々の定期テストのお勉強で頑張れば、そのまま大学に進学できない?それに、君みたいな慶應附属の女子校だと、港区の学校近くに、慶應生だけが通うような準拠塾的な個人塾みたいなものがあるだろう?」こう問い質した。

 すると、「そうなんです。学校の授業が文法なんか適当に教えていて、分からない箇所なんかはうやむやで終わる。友人たちが通う塾も学校の試験対策路線の勉強で、学校の教科書のレールの上に乗っかって教えていて、私からすると真の英語力なんかつかないと思ったかたらです。学校の英語の勉強とは離れてもいいから、真の英文法や読解力をつけたいんです。うちの女子高の英語の授業じゃ、他の学校のできる高校生とは、英語が断然開いてゆく危機感を抱いたからです」

 これまで男子の慶應生で、中高を問わず、彼女ほど、自校の英語の授業を冷ややかに分析して、英語がこのままだと出来ない大学生になってしまうぞという自覚を抱いて入塾しきた人は一人としていない。学校の勉強がわからない、学校の勉強で成績を上げたい、学校の成績が下がってきた、などなどの理由で、慶應の授業内での不満や危機感から入塾してきた男子生徒のみであった。それも、ほとんどが、親御さんからの問い合わせである。今般の慶應女子の高校1年生は、自身で電話をかけて入塾を申し込んできた、附属系にしては、変わり種でもある。因に、数学は、学校の授業ですいすいついていけて、将来理系に進みたいらいしい。また、数学に関しては不満も語らなかった。慶應という所は、中学であれ、高校であれ、入ってしまえば、内部生には超甘い学習基準、のびのび授業といった英語教育の印象を再度確信した。

 もう、2カ月以上、彼女に英語を教えていて感じるが、附属生とは思われないくらい、モチベーションが高い、さらに、大学受験を控えた中高一貫校の生徒と比較しても、単語の小テストの課題をきちんと暗記してくる。点数がトップである。やはり、芦田愛菜の一年後輩ながら、彼女の系統の地頭の良さを痛感する。受け答えがめりはりがよく、遠慮なく物事を口にする。
 先週、授業後に、古文の話になった。そうしたら、慶應女子の高校1年の古典の授業は英語以上に遅い、雑で、横浜雙葉や横浜共立の中2レベル後半くらいしか古典文法には踏み込んではいないようだ。なるほど、慶應大学は、国語の受験科目はない。小論文である。ましてや、古典など一切無縁の受験ルート大学でもある。内部生は、恐らく、英語以上に古文の読解力は、他の女子の中高一貫校の生徒にくらべ劣っていることは想像に難くない。

 さてここでそうした慶應の勉学の内実を考慮した時、例えば、高校生企業家であった椎木里佳{※『女子高生社長、経営を学ぶ』(ダイヤモンド社)という書がある}という幼稚舎から慶應女子高を経て、慶應大学に進んだ事例を挙げておこう。彼女は、英語や古文はおそらく、そんな得意ではなかったことだろう。内部進学でも文学部に進んだ典型的慶應女子である。しかし、社会で巣立つ、社会で役立つスキルは、英語や古典とは一切関係がない、その好例でもある。高校生時代は、勉強そこそこ、好きなことにのめり込んで、それが、プチ仕事、学生のプチビジネス、そして、一躍世間で注目されるビジネス的インフルエンサーとなってもいる24歳のプチ実業家でもある。彼女の例を見るまでもなく、この慶應的のびのびシステムが、時代にマッチしていなくもなく感じ入る。芸能活動OKの慶應に進んだ芦田愛菜がそれをものの見事に言い表している。これは、今最も注目を浴びてもいる経営コンサルタント山口周氏も同様である。勉学もろくすっぽせず、好きなことに没頭した学生生活をしていたそうである。問題児的塾校生であったと彼自身吐露してもいる。それも文学部哲学科に、大学院は美学美術史修士を経て、電通やボストンコンサルティングなど、アカデミック畑で磨いてきた経歴とは真逆(?)の、異質のビジネス路線で頭角を現す。因みに、慶應の附属から男子が、文学部に進む者は、超勉強が苦手の落ちこぼれか、超天才肌の変り者のどちらかである。保守派の論客福田和也などは後者でもあろう。
 学校や大学という場と社会での活躍の場という因果関係は、傍からみると、ブラックボックスの中にあるとも言えるのが、この椎木里佳や山口周のケースでもある。
 さて、ここで結論を申し上げるとしよう。
 令和に入り、教育のジャンルでは、やたら、認知能力と非認知能力と侃々諤々とあちらこちらで議論がされてもいる。政府、文科省は、特に、後者、非認知能力の涵養に血眼になってもいる。思考力・表現力・判断力・論理力・コミュニケーション力などなどである。これらを試す、審査する、試験する、それの具現化されたものが、大学入学共通テストである。非認知能力とは、「生きていくために必要な能力」というが、果たして、受験の関所ともいえる、大学入試において、この能力を試そうとすればするほど、私から言わせれば、生きてゆく能力に欠ける学生が生み出されても行く悪循環に陥ってもゆくとだけは言わせてもらおう。文科省は、この陥穽に気づいていない。
 この<化け物試験>なるものの正体は、短時間で、複合知識を認識し、それを情報処理する能力を試す問題と言い換えてもいい。極論ながら、この試験は、大学生が卒業する際に7割以上クリアーできなければ卒業させない試験にするのがベターである。
 特に、時間が、全ての科目において足りない。ここが、悪趣味問題の最大の欠点である。この性質の問題を、英数国を問わず、思考力や表現力などを試すものなのか、はなはだ疑問である。
 私は、予言もしよう。こんな、非認知能力最優先の国家的プロジェクト問題を若者に課せば課すほど、将来の日本を背負って立つ人材は払底してゆくであろうと。
 ちまちました、こせこせこした、短時間で、複雑な迷路を脱出しなければならないゲームのような共通テストよりも、むしろ、おおおらかで、ゆったりと、長時間で、好きなことをして大学に進める慶應のような“ゆとりシステム”の方が、明日の、将来の<孫、三木谷、柳井、似鳥>といった企業家を輩出するものと確信している。
 20年以上先にもなろう。世の中では、早慶の附属から、MARCHの附属系列校から、それぞれの大学に進学した学生。そして、公立の高校から、地方の国立{※旧7帝大は別である}を回避して、私大に進んだ学生が、ビジネス界やマスコミなど様々なジャンルで活躍されることになると予言しておこう。理由は、簡単である。あの、IQ試験もどきのゲームともいえる、時間がネックの大学入学共通テストの関門をクリアーしてきた大学生に限り、この2020年代は、まったく使えない人間にしてしまうシステムでもあるからだ。彼らは、非人間的鋳型でつくられた中途半端AI人間になれ下がってしまっているからでもある。
 余談ながら、この私の論拠を裏付けるものとして、「お笑い芸人にどうして東大出身が超少ないのか?{※いるにはいるがほぼいないに等しい!}」「いてもマイナーで、面白くもない」という命題をじっくり考えると、まんざら私の主張も嘘にはならないと勝手ながら考えてもいる。
 


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