カテゴリ

HOME > コラム > 共通一次から共通テストまでの歴史的総括

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

共通一次から共通テストまでの歴史的総括

 私は、生徒に日本史も教えていることもあり、どうも様々な事柄が、歴史の事象と連想で結びついてしまう気質があるようである。
 
 令和の2回にわたる大学入学共通テストなるものを歴史に総括してみたい。
 
 江戸時代(慶應3年まで)は、一応“士農工商”なる身分制度が存在してはいた。これを、とにかく身分制社会、封建社会という。1979年の共通一次試験以前は、国立大学では、一期校・二期校とレベルや格といった意味で、戦後の大衆・学生に差別感があった。そのひいき目が、学生自身の深層心理に向けられ、劣等感ともなっていたという。その卑屈な意識が、様々な過激な学生運動へと駆り立てたともいう。一般論として、中核派や連合赤軍などに関与した学生は、ほとんどが二期校だったともいわれている。文部省や一部の政治家は、こうした大学の格差・差別をなくそうという目論見もあり、一期校と二期校の廃止と同時に、共通一次試験で基礎力を、二次で応用力を、国立大学は、試験日を一斉に同日にして、国立大学の従来から存在していた《格差・差別》をなくす方向へ舵をきった。それは、国民的行事ともなった共通テストへの端緒でもあった。しかし、皮肉なことに、この格差や差別が解消した代わりに、偏差値というモンスター指数が、全ての大学の序列化を生むことになる。
 共通一次試験以前の国公立大学受験制度は、ある意味、士という一期校と、農工商という二期校の差別制度でもあった。予備校も日陰者の存在の時代であり、小中高における通塾率も、学年の数割程度しかなかった時代、先天的、潜在的学力を有する者が、塾や予備校とは無縁に、ベビーブーマー世代の中、台頭、学歴社会という大海原に出て行った。コテコテの学歴社会で出世や昇進、就職や結婚に至るまで、暗黙知の下、決定されてもいたのは、「封建制度は親の仇でござる」ではないが、「学歴(一期校・二期校)社会は、社会の敵である」という名の下に、共通一次試験改革へと<昭和大学受験維新>として扉が開いてもゆく。
 
 共通一次試験時代は、1979年から1989年まで、11年間で終わりを迎える。時代は、平成の世となっていた。平成初期に、この共通一次からセンター試験へとその存在意義や、問題の性質もだんだんと変貌を遂げ始める。
 
 時代は、大正である。大正とは、民本主義にも象徴されるように、大正デモクラシーとも呼ばれた時代である。日本中の私立大学が、早慶を含め、原敬内閣の大学令により、帝国大学同様に、大学として認知された時期でもあった。しかし、三井や三菱の社員としては、東京帝国大学出と早慶出とでは、給与に断然の開きがあり、世間の目線も令和の今以上の大学の格というものに開きがあった。それでも、一応は、国立私立と大学が、同一線上に並んだ時代、それが大正でもあった。
 センター試験も数年を経る頃には、私立大学もセンター利用枠が雨後の筍の如くに澎湃と跋扈し始める。また、国公立大学もアラカルト方式ではないが、好きな科目や得意な科目を好き好んで選べ、受験有利の基準で、進むべき大学を決めるという悪しき受験慣例が生まれもする。共通一次の5教科7科目1000点満点から、5教科5科目800点満点と、一般教養の前段階でもある基本知識も有せずとも、国公立に進めるルートができあがる。センター試験末期には、東京外語大ですら、数学ⅠAで十分となるにまでに至る。
 現代の我が子を甘やかすバカ親同様に、受験生に多科目を課さないバカ大学にかぶって見えてもくる。
 平成も後半になるや、その受験生の半数以上は、私大のお得意様になる。私立文系の受験生は、センター試験の一日目の英国社だけを受験する者がどれほど多いか、それが物語ってもいる。
 世の親御さん、世のサラリーマン、彼らは、1月中旬の国民的行事でもある公的試験、センター試験が、夜7時のNHKニュースで報じられると、会場に映し出される場所が本郷もあり、大方は、国公立志望の学生さんとイメージすることであろうが、実態は、MARCHを含め、日本中の中堅私大から地方のマイナー私大にいたるまでの“私大の顧客”であることを認識してはいないようでもある。
 そうである、大正時代に原敬内閣の大学令で早慶MARCHが大学として承認されたように、平成という時代、センター試験に私大が組み込まれた、いや、公的試験でもあるセンター試験が、民間払い下げされた時代でもあった。私大が、練りに練られたマークシート問題で、自校で作成する手間ひまと資金が省け、国公立くずれの、“理系”くずれの中途半端秀才のおこぼれにあずかれるという姑息な根性も加味して、どしどしと多くの凡庸なる私大がこの“権威の象徴”に参画してもきた。早稲田大もそうである。一方、センター試験に涼しい顔で臨んでいたのは慶應くらいなものであろう、福澤諭吉の独立自尊が受験制度においても貫かれているのは、OBとしては小気味いい。
 私が、聞き覚えのある名言。「試験問題は、その大学の理念であり、メッセージでもある」という文言、それが、どんどん希薄になってもいった時代、それは、センター試験に象徴されている平成という時代でもあった。これを頑なに貫いている大学、その最右翼が、東京大学である。その大学の権威、威信、その品格とは、その試験問題に存すると言っても過言ではない。それは、東大に二次試験が証明してもいる。共通一次からセンター試験と二次試験の比率、1対4にその姿勢がものの見事に表れてもいる。余談だが、昨年、コロナ禍で二次試験を中止し、共通テストのみで、合否を判定する決断をした横浜国大なんぞは、理念なき大学の極みでもある。余計な話だが、1960から70年代にかけて、この大学が学生運動のメッカともなっていた点はうなずける。学生が、バカ幹部に反旗を翻した行為もまんざら、今から目線で言えば、学生に同情を覚えもする。恐らく日教組の“教員附属大学”でもあったのであろう。
 平成という時代、自校の問題作成能力欠如とその労力回避や資金難といった窮余から漂着した愚かなる効率主義にとらわれた私大がどんどんと非思考力・非論理力・非表現力を試す、時間切迫型問題のマークシートの麻薬中毒にハマっていった経緯は、先般議論ともなった、英語の民間試験採用や、共通テストにおけるリーディング問題100点とリスニング問題100点の同配分形式の採用にものの見事に、国公立大にも逆波及した。世も末の試験制度のダッチロール現象の何物でない。いずれ、共通テストは、情報という科目を採用する頃に、“資格系試験”と豹変することでもあろう。その前に、賢明なる私大や一部の国公立大は、この共通テストという“タイタニック号”から下船するものが続出することであろう。
 
 昭和初期、軍国主義というファシズムが時代を覆い始めていた。令和という時代の初期、大学入学共通テストなるモンスターが、共通一次試験の“鬼っ子”が生まれた。日本人は、大衆は、この共通テストの歪さ、異様さ、非学力路線ともレッテルを貼ってもいい、一種、条件反射と即断性優先の、<考える前に跳べ的IQ試験>の正体を喝破してはいない。これは、ピジン英語ならぬ、ピジン試験といってもいい、国民劣化度を判定する試験以外の何物でもない。
 この共通テストに反旗を翻る者は、令和の時代、受験非国民、受験落第国民とレッテルを貼る風潮が生じたら、昭和初期の日本同様に、これから、亡国への道を、経済のルートではなく、今度は、教育のルートでも歩み始めることになることだけは予言しておこう。

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

このページのトップへ