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知識とは「わかる」ことでなければならない

 知識とは伸びる手であり、「わかる」というのは結ぶことだ  幸田(あや)
 
 明治の作家、幸田露伴は娘に、本を読んでものが「わかる」ということの意味を訊かれ、「氷の張るようなものだ」と答えた。知識は知識を呼び、それらの先端が伸び、あるとき急に()き合って結びつく。そしてこの線に囲まれた水面を氷が薄く(おお)う。それが「わかる」ことだと。以後、文はこれをずっと心に留めておく。随想集『幸田文老いの身じたく』(青木奈緒編)から。
                折々のことば  鷲田清一 2022・4・8より
 
 この朝日新聞のコラムを読んで、今教育界で議論のテーマ、<認知能力と非認知能力>について考えさせられた。また、詰め込み教育の是非に関してでもある。更に、受験経験はその後人生に役に立つのか否かといった問題でもある。また、一発勝負の受験かAO・推薦かといった議論に関してでもある。
 
 現実派は、認知能力、詰め込み教育、受験経験、一発勝負、こうした教育上プロセスや経験といったものに好意的、肯定する人々でもある。
 一方、非認知能力、非詰め込み教育、附属やAO・推薦といった思春期の若者にストレスやプレッシャーを与えない教育上のルートをよしとする、理想派が存在する。
 こうした両派を、粗削りながら、現実派は、知識派、そして理想派は、知恵派と裁断してみょう。
 諺や格言の暗記が先か、体験が先か、その問題でもある。また、江戸時代の論語の素読の慣習こそ、諺や格言が先の典型でもあろう。これは、知の学びの演繹法か帰納法かの論にもゆきつく。多読が先か、精読が先か、また、易しいものをいっぱい読んで、その英文法の規則を知るか、少しでもいい難しいものを深く読んで、その文法の真髄を認識するか、英語学習においても、この議論は応用が効く。
 易しいものをどんなにたくさん読んでも、難しいものを読めるようにはならない、なったとしても、恐ろしいほどの時間を要する。一方、難しいものを、大変な労力を要して、鍛錬をつめば、易しいものは、速く読めるようになる。精読の極意である。子どもは子どもらしく育てるべきだ、いや、子供でも、大人扱いして育てるべきだ、その論にもゆきつく。さらにまた、日本の高校生がアメリカのハイスクールに転校すると、数学がめちむちゃできる、数学の天才とみなされるそうである。これは、アメリカの高校生は、数学が日本の中学レベルをやってもいるからである。数学のゆとりの世界に、数学のスパルタ世界で育った高校生をぶち込めば、数学の秀才とみなされるのも無理はない。アジア系の学生は、大方、理系では、中等教育では、欧米に抜きんでている、いや先んじてもいるからに過ぎない。これについての是非はこの場では留保しておく。
 知識の有無、知識の広さ、言い換えると、ことばの豊富さ、ことばの多彩さ、これがあった方が、「分かる」という早道でもある。知識が豊富であるには、初等教育の国語の重要性にも結び付く。物事を認識する能力、物事を表現する力、これは、語彙の豊富さに比例する。ちょうど、デジタルカメラでも、画素数が多ければ多いほど、映像は美しく、的確にものごとを映し出し、相手のその情報を伝えることが可能であるのと同義でもある。
 
 自らの経験、自身の認識を検証するツールが、諺・格言であり、ことばでもある。
 
 幼児期に、他人の注文したものの方がよくみえる経験をしたことがあろう。これは、強烈な感情による主観性でもある。その後、学校や親から「他人の芝生は青く見える」を教わる。この時点で、自身の主観性の正しさを検証する。客観性へと昇華した瞬間でもある。
 「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝」(枕草子)これも人生のどこかしらで、追体験する真理でもある。知識が、経験をあとから準える、ある意味、「氷の張る」瞬間でもある。この清少納言の感性は、未成年では及びもつかない、この四季の味わいが分かるまでには、せめて大人のビールの苦みが分かる味覚を習得する年ごろとも比例する。
 

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