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高校までは飛車・角行、大学以降は、歩が大切!

 令和の初め、棋界に天才が出現すると、その業界?は世の注目の的ともなる。平成の初期に7冠を達成した羽生善治の登場以上に藤井聡太がメディアを賑わわせている。少々、いや、若干、将棋と言うゲーム(勝負)をやったことのある人を対象に、受験(勝負)と科目(道)、そして大学と社会といったものを掛け合わせて語ってみたい。
 
 まず、将棋の駒というもので、素人目線で言わせてもらえば、一番大切な駒、相手から奪い取りたい駒、それは、飛車である。その次が、角行である。この両駒は、水戸黄門における助さん・格さんの立ち位置ともいっていい、縦横無尽に活躍できる駒である。軍隊における一種飛び道具ともいってもよく、戦闘機とミサイルのようなものである。この両者は、盤上で活躍しまくる、相手の陣地を荒らしまくる、それほどの威力を発揮する駒でもある。だから、ずぶの素人に限り、この両駒を中心に勝負展開したがる。
 
 では、この飛車と角行とを受験科目に擬えてみよう。教え子でも、将棋のルールを知っている者によく語る余談である。受験において、この飛車と角行という科目は、数学と英語であると比喩として、語るのである野球でいえば、バッターにおける4番と3番である。この両者がいる球団は、連覇などする。巨人のV9における王・長嶋のようなものである。
 そもそも、この喩えは、誰でも理解してもくれるが、実際、高校1年の段階で、<思う、自覚するは安し、実行する・鍛錬するは難し>、それが実態、現実でもあろう。
 高校2年になるや、飛車という数学を文系志望の、得に、女子がどれほど手放してしまうか、それは、現場の高校教師や塾・予備校の講師なんぞは、どれほど現実を把握していることだろうか。
 この数学(飛車)や英語(角行)が、好き、また少々得意、それでも、模試や本番の実践で思うように得点に結びつかない生徒もいる。これなど、それを束ねる自己、即ち、“監督”が成長していない、戦略や戦術に欠けている“監督”なのである。あの王・長嶋がいても、あの名監督川上哲治がいなければ、V9など不可能でもあった所以である。また、川上監督の下でなければ、王の大記録、長嶋の華々しいプレーも、恐らく存在していなかったことだろう。自分自身を客観化する、もう一人の自我の大切さを語っているまでである。
 学校の定期テストで、数学や英語が高得点をとれる、しかし、模試や本番ともなるといまいち、そうした生徒は、相手の陣地に食い入り、成飛車、成角行となり、敵将の王を追いつめられない生徒でもある。
 以上が、大学受験までの二大巨頭の将棋の駒、飛車(数学)と角行(英語)の操り方を述べた次第である。
 
 それでは、大学時代、そして社会人時代、この時代における将棋の駒の大切さを述べてみたい。勿論、数学や英語という科目がどれほど得意でも、それを仕事やスキルに結びつけてもいなければ、話にならない。
 大学生・若い社会人に告ぐ!高校を卒業した後は、一番大切な駒は、歩であると自覚すべきである。
 金二枚、それは、物理や化学でもあり、銀二枚、それは、歴史や地理でもあろう。桂馬が生物か、香車が政経か、そんなところでもあろうか?
 しかし、歩という駒は、9つもある。前衛の一歩しか前に進めない駒であるが、成金ともいい、相手陣地(大学や会社など)には入るや、金と同等の働きをする有能な駒に豹変する。
 
 この‘歩’とは、初等・中等教育における、自身の好きで好きでたまらない趣味であり、小学校時代からの習い事でもあり、また、中学から始めた、文化系・運動系を問わず、部活動のそのジャンルでもある。大学受験という勝負には、一切、力を発揮もしない“個人的技能”でもある。
 
 こうした、歩という駒は、高校までは、恐らくは、英数国理社といった勉学上、科目にプラスの効用は及ぼさない、むしろ足を引っ張るものとして極力抑えてもいた、潜在的“技能”でもある。
 堀江貴文が、久留米大附設中学に入学し、両親に買ってもらったパソコンというものがいい喩えともなるであろうか?山口周が、慶應大学附属高校に合格し、親から買い与えられたシンセサイザーという楽器でもろあろうか?堀江は、高校2年の終わりまで、パソコンにのめり込み、学校の成績は底辺を極めるが、高校3年で猛勉強し、東大文Ⅲに合格し、十代の受験結果の帳尻を合わせる。しかし、大学時代は、その中等教育の学業の足を引っ張ってもいたパソコンが、彼の人生を決定づけるのである。一方、山口も、高校時代は、音楽、特に作曲などにのめり込み、高校の成績も低空飛行する、さらに、大学時代(高校時代も)は、ほとんどキャンパスには、足を踏み入れず、読書・映画・絵画などを中心とした自身の好きなことに没頭していたともいう。
 堀江のパソコン、山口の芸術的趣味、これらは、高校時代は、まさしく、歩のような存在でもあっただろう。しかし、人生とは、分からないもので、一見十代では、凡人の目には、無駄・無用と思われる、“道草・寄り道”が、その人の人生を助けるというものの典型的なケースである。
 凡庸なる高校生の、寄り道・道草とも思えるジャンルは、その後、その大学生・社会人でどう金の卵に化けるかはわからないものである。
 人生における、“歩”を侮るなかれである。

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