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Z世代という"意匠"

 「美しい花がある、花の美しさというものはない」『当麻』(小林秀雄)
 
 平成から令和にかけて、外国からの舶来概念“Z世代”がやたらと持てはやされている。短刀直入に言い換えれば、「Z世代とは、純デジタルネイティブ世代」と言えばいいだけの話だ。そこを、さももったいぶって、何か、突然変異の、新種の世代が出現してきたかのようなイメージ戦略で、市場やメディアでは、やたら、もてはやす風潮が、気に入らない。
 インフルエンサーとしてのZ世代を、非デジタル部族は、文化的“黒船”として幻覚視しているに過ぎぬのである。これは、視点は違うが、「ワクチンを打たないとコロナになる」と考えている一般大衆のメンタルとも通底している。若者は、特に、新種の世代は、団塊の世代であれ、新人類世代であれ、ゆとり世代であれ、さとり世代(デフレ世代)であれ、少々批判的目線で、上の世代からは、扱われてきたものである。それが、この令和4年、どうだろう?そのZ世代とやらが、わが国日本では、人口比15%足らずしかいないにもかかわらず{※外国では35%らしい}、超もてはやされている現実は、企業におけるマーケッティング戦略で、主眼とされていることからも、異常にすら感じる。それは、明白である。彼らは、デジタルネイティブで、スマホに、パソコンのキーボード以上に早く文字を打ち込め、日常の些末な光景・情景を写メし、SNSなどで配信する能力に長けているだけに過ぎない。また、様々なアプリをいとも簡単に自身のスマホにインストールするのはお茶の子さいさいである。デジタルの最先端をゆく“人間としてではなくツール・時代を眺める眼鏡(概念=意匠)”として、ビジネス的に重宝されているに過ぎない。私見だが、彼らの文化的濃度の薄さは、小岩井牧場で飲む牛乳と巷のスーパーで200円足らずの紙パックの牛乳くらいの“濃度の差”がある。これは、マイケルジャクソンやマドンナの世代とレディガガとジャスティンビーバーの世代の文化的“質的”差異とすらいってもいいものである。これは、日本の音楽業界における“4大天才”とも称される陽水・みゆき・ユーミン・サザン(桑田)と近年の椎名林檎・米津玄師・髭ダン・キングヌーなどを比肩しても、当てはまる、ある意味、文化的法則である。こうした後者の4人は、文化戦略ともいえようか、まるで画家の村上隆や奈良美智が、超高値で取引されるようになった、文化的イメージ戦略と似たものがある。この点を深く踏み込むと、数回にわたり、このコラムを書き連ねていかねばならないため言及しない。わかる人だけ、おわかりいただければいいのである。
 Z世代なる用語を、あれこれ振りかざして、それが、時代を、マーケットを、文化を、それぞれ動かしている、左右している、そのように考える輩は、小林秀雄の『様々なる意匠』を一読すれば、納得するはずである。
 このZ世代なる用語は、“GAFA帝国”に牛耳られている時代・世界を、分かりやすく裁断する意匠(概念)なのである。断ってもおくが、Z世代には、何も責任はない、批判する筋合いもないし、そんな権限や資格もX世代、Y世代にはない。むしろ、Z世代を“ちやほや”するX世代、Y世代が非常に、目障りなのである。
 これまで、新人類世代であれ、ゆとり世代であれ、これほど、メディアで光が当てられてきた世代も珍しい。この点は、ある意味で、社会学が進歩した証左の一つの顕れでもあろう。世の中は、Z世代という概念で、分析、調査、そして、実像が見えるなどと判断するのは、戦前の芸術・文化というものを、全てマルキシズムで動いている、生み出しているという風に考える社会観と全く同類のものである。そして、戦後の学生運動や安保闘争など、平和主義・社会主義が動かしてもいたにしろ、そこには、その後、彼らの文化というものは存在しなかった。若者は、あくまでも、文化の外側(サブカルとも言える)、それも“意匠”という観念に動かされればされるほどそうであるが、その後、ジーンズからスーツへ豹変した。幕末明治にかけて、のちょっまげから散切り頭へ激変した様に。文化的連綿性など有していないのである。私は、昭和における新人類に帰属してもいたが、ジャーナリスト筑紫哲也の造語ともされる、この新人類には、違和感を感じ、同世代でありながら、遠巻きに見つめていた。そうした気質は、どうも天の邪鬼に起因するものらしい。「世代よ、Z世代と十把一絡げにされることを拒否する若者であれ!」それは、確か、ロックグループL’Arc’~en~CielのリーダーHydeが、「ラルクは、ビジュアル系バンドではない!」と怒ってそう呼ばれることを拒否した、20年以上前のエピソードを思い出さずにはいられない。
 
 「新しい世代が、目に付き始める。新しい世代がいる。しかし、世代の新しさなどというものはない」(露木康仁)
 

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