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経験というものについて③

 経験と体験とはともに一人称の自己、すなわち「わたくし」と内面的につながっているが、「経験」では、≪わたくし≫がその中から生まれて来るのに対し、「体験」はいつも私がすでに存在しているのであり、私は「体験」に先行し、また、それを吸収する。
『経験と思想』(森有正)~岩波書店~



 これから、経験と体験という言葉の違いについて、思想家森有正を齧った者として、少々下世話な文脈で、高校生でもわかる次元から語ってみたい。

 そもそも、この経験と体験とは、英語にすると、EXPERIENCEとあいなろう。話は逸れるが、高校生に小論文の指導や現代文の講義をしていると、概念と観念との違いが分からぬ、いや、同じくらいに認識していて、だいたい同じだと思いこんでいる生徒が少なくない。これは、国語教師が、授業中に説明するよりも、倫理社会の時間で、詳しく説明された方が、その生徒たちの学びのメンタル上は、適してもいる。また、生徒に思考と内省との違いも、体験と経験との違いに則して説明すると、少々わかってもくれる。こうした用語は、抽象と具象{形而上と形而下}の違いにゆきつくが、この場では、その定義には踏み込まない。
 
 では、この経験と体験の、日本語における違いとは如何なるものか?

 まず、概略を申し上げると、体験というものが、強烈な意識により、それは、深度ある思考といってもいいのだが、それ(内省力)を介して、個人的次元の思想となりおおせた時、それを経験とも呼んでいいのである。それは、あくまで教養的次元でのことである。一方、それが人生訓ともなるのが、修養という次元においてである。更に、教訓ともなるのが、修身という地平でもある。これは、戦前の教育を前提に語ってもいるのだが、教養的次元とは、旧制高校生、修養的次元とは、旧制中学以下レベル、そして、修身的次元とは、(高等)尋常小学校レベルとも言っていいかと思う。そういう、学びの段階で、社会や世間といったものを経た体験といったものを個人個人が、精錬させて自身の“処世術”としてなりおおせて初めて、それは体験から経験へと脱皮、いや、雄飛した言葉となるのである。

 一般的に、成功体験と失敗体験というものがある。それは、自身が、個人が、社会との桎梏、試練、格闘などで、命運の白黒が決する岐路に振り向けられた時に実感する、強烈な意識の謂いである。世の凡人は、その明のルートに入ったこと、暗のルートにはまったことは、自覚はできていても、それを次の“一歩への糧”にできるか、それは大方できてはいない、いや、出来ないものである。
 出来るか否かは、次の名言が証明してもいよう。

 「失敗や不運を自分に引き寄せて考えること続けた人間と、他のせいにして済ますことを繰り返してきた人間とでは、かなりの確率で運のよさが違ってくる」(渡部昇一)

 ※私個人、塾や予備校次元に引き寄せて言わせていただくと、「合格すれば、俺の努力(能力)のおかげ、落ちれば、塾(予備校)のせい!」このように考える生徒は、その後、実社会では、伸びない。一方、「合格すれば、塾(予備校)のおかげ、落ちれば、自身の努力(能力)不足!」と考える生徒は、家康型ではないが、大器晩成型ともいえ、いずれ運気が巡ってもくる。

 この指摘が目指すところは、体験と経験思考と内省くらいの違いである。渡部氏の言うところの前者が、経験する者、一方、後者が、体験する者と定義したい。また、前者が名君、後者がバカ殿ともいえるであろうか。さらに、「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下のもの」(『半沢直樹』より)に当てはまるか否かも名経営者の試金石ともなる。

 成功体験から連想する格言は、「勝って兜の緒を締めよ」「油断大敵」くらいでそう多くはない。一方、失敗体験に由来する格言は無数にある。「艱難汝を玉にする」・「人間万事塞翁が馬」・「可愛い子には旅をさせよ」{※これなんぞは、一代で大企業をなした名経営者は口では言うが、実はできない!}などが私の愛好するものでもある。

 これは、名言家でもある野村克也にしろ、稲盛和夫にしろ、常人には及びもつかない挫折や失敗というものから、金言を紡ぎ出した名人でもあろう。失敗体験を人生の定理とした達人でもあるが、これこそが、“体験というものを経験にした見事な具体的事例”でもある。成功体験からは、ほとんど学ぶものがないといった言葉も、体験では自覚はできない、経験として強烈に意識して始めてわかる真実である。それゆえ、幸福なる環境にいる一般大衆は、ある意味、失敗体験とは疎遠なる運命にある、それゆえ、思考せずとも日夜ぼんぼんと苦痛や悩みなどなく過ごしてもゆく、思考する必要も暇もなく、真に考える日常を不要とする空気の中に置かれてもいる。
 成功体験の連続の日々、いや、失敗体験のない日常に置かれている人間とは、ものごとを深く考える習慣の中にはいないと同義といえよう。頭が良く、ルックスに長けて、裕福なる青年は、一般論だが、真の小説などは書けやしない。思想書や哲学書などの類も読む必要もない。ほどよい流れの中に浮いている、舵のない舟のようなものだ、黙っていても、水流が、自身を川下へ、目的地へと運んでくれる。思考力いや、内省力とは、ある意味、逆境でのみ芽生えるという真実が、自身の向き合ってもいる体験を、経験として、そして、それを自身の思想として羽化する力を有してもいるのである。
 個人の失敗体験にしろ、成功体験にしろ、徹底して思考する知的体力、それこそが、体験という空気中の水分を、たらいの水滴に“濾過”する、つまり、生きる上での必須の糧ともしてくれるのである。それこそが、賢明さ(WISDON)の正体でもある。
 濁り水、金鉱石、こういった体験を、飲料水、金塊にするには、強烈なる思考に裏打ちされた“濾過機”が必要であり、それこそが、経験という概念でもあり観念でもある。体験を経験にした者のみ、いや、自覚した者のみに、誰もが希求する“水と金”という思想が手に入るのである。
 因みに、超端折って定義すれは、経験とは、体験を経て身に付いた知識・能力・技術とでもいったら、高校生は、理解してもくれすだろうか?それは、ヴェテランの数学・英語・国語教師に教わっても、格段の差がでる所以はそこにもある。また、私の好きな名言「塾や予備校に依存する者は失敗し、利用する者は成功する」(元駿台予備校講師:飯田康夫)の真意も、究極はそこに存する。勿論、やる気や地頭の差というものが当然あろうかと思う。しかし、今、現に対峙している対象・状況を強烈に意識するか、そして冷静に分析するか否か、それが真の考える力でもある。それは、名将野村克也の南海入団時の数年間を紐解けば容易に首肯できる人生上の真理でもある。
 近年の名著『勉強の哲学』(千葉雅也)の主旨は、養老孟司が、「どうして勉強するの?」という、素朴で、難しい問いに明快に応じた次の言葉に集約されてもいる。私の記憶の範囲内での返答であるが、大まかは間違ってはいないと思う。

 「勉強すると、その後、自分が変わっていることに気づく、その変わった自分は物事の味方が変わって見えていることが自覚される。更に、その学びの行為に嬉しくなる、面白くもある、気持ちいい、そうした快感を味わうためにも、人は勉強するのである」

 ※これが、森有正の“経験”というものの一側面であるとも言える。
    
 さて、まとめるとしよう。

 体験という主観性に立脚したコトを客観化する精神の営為を経験とも定義できようか。その経験で自己をさらに深く客観化する{“I am‘you of you’.”or“‘I’is you.”}ことが、森有正のいう、思想としての経験の一側面でもある。こうした精神の意志また格闘を経験とも言いうる。これを、人は、倫理とかモラルと無意識に規定しているにすぎない。それは、ある意味で、人格的ステージで、私(自己)が昇華する現象でもあり、証なのである。この観点の変革を、哲学では、脱構築といい、経済などでは、パラダイムシフトと命名しているに過ぎない。そうした用語は、経験を基盤とした、外面上の、思考の飛躍でもあり、雄飛の思考ともいいうる、社会上の戦術に過ぎない。
 こうした精神のプロセス、つまりは、経験というものの実相、その段階的上昇を、孔子は、余りに有名な言葉で要約したにすぎない。これは、人生上のスナップショットを、“森有正の≪経験≫というカメラ”で撮った寸鉄の羅列でもある。

 「十五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず」


 余談ながら、自身で所持する全集は、次の3人のみである。全て、フランスがらみの文人でもある。
 『森有正全集』筑摩書房
 『フローベール全集』筑摩書房
 『小林秀雄全集』新潮社



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