カテゴリ

HOME > コラム > 人新生は健康志向と同類

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

人新生は健康志向と同類

 近年、斎藤幸平氏により、人新生という言葉が有名になった。人類の政治・経済活動が、地球環境に巨大なる影響を与える時代という意味である。これまで、人類が自由気ままに文明を発展させてきても、地球という自然環境は、びくともしなかったという意味で、若い頃、暴飲暴食をしても、へっちゃらだった肉体にガタがきたのと同じ自覚を自然環境的観点で気づき始めたといっていい。これと同時並行的に、SEDSという理念もすっかり世界に定着した感がある。地球温暖化と海洋汚染に代表だされる人類の住環境への配慮である。20世紀は、イケイケどんどん、大量生産大量消費、石炭石油をどんどん燃やして電気を作りまくり、どんどん便利な製品を作れ!環境への配慮などなく、人類の成長は従来の手法で無尽蔵に続くやに思われた。しかし、21世紀にもなると、人間はその限界に気づき始めたらしい。

 「人類は、所詮、滅びるであろう。それなら、抵抗しながら滅びよう」(渡辺一夫)


  以上は、マクロ、巨視的視点での覚醒である。

 では、ミクロ、微視的視点、いわば、個人的、人間的レベルではどうであろうか。これも、同様である。今や、世界的規模での健康志向である。コカ・コーラやマックのフライドポテトやハンバーガーは敬遠される。だが、食べる人は食べる!肥満の元凶だからだ。肥満イコール不健康、不健康=病気、そして、病気イコール短命を意味しているからである。世界的規模の日本食ブームは、何も美味しいという観点からだけからではない、健康志向も一役買ってもいる。

 日本の食品にも、減塩、低カロリーなど、健康に配慮したものが激増している。プラスチック製品回避が、環境を意識した行為であるのと同様に、低脂肪高たんぱく食品の愛好の流れは、この社会的環境マナー行為の縮図と言ってもいい。

 企業においても、同様である。サントリーやキリンなど、世の健康志向の時代の流れ、アルコール忌避・回避大衆の出現など、酒類販売量は、頭打ちである、売り上げが限界値、いや、下降線でもある。若者などの酒離れ現象が主要な要因でもある。よって、サントリーなどは、健康サプリ業態への進出で大成功をおさめ、キリンなども乳酸菌ジャンルへ進出し、業績を伸ばしている。時代の、アルコール時代から健康志向時代への適応の成功例である。こうした企業の大変革というものは、デジタルカメラの出現で、富士フィルムが、医薬品・化粧品へ大転換して、大成功をおさめ、今や優良企業としての存在感を誇示しているのに対して、コダックという世界一のフィルムメーカーが倒産の憂き目にあったのは対照的な例でもあろう。

 このように、人類、大企業、そして、個人レベルで、時代に適応、対応して自身を変換、変革してゆかねばならぬ摂理は、人間の8~90年の一生を鑑みた時、何も、健康面だけではないのである。自身の生涯の仕事、キャリアというものが、如何に、二毛作的、三毛作的に積み上げてゆくのか、それこそが人生設計に意識を向けるヒントともなることでもある。

 前回にも言及した、“永遠”というものである。人類は、20世紀まで、どこか、成長というものが、如何なる面でも永遠だと思う嫌いがどうもあった。1972年にローマクラブで出された『成長の限界』という先見の明が象徴的である。宇宙船地球号の限界に警鐘を鳴らした慧眼もすでにあったが、その観点には、ここ20年前くらいにしか気づかなかった。いや、わかろうとしなかった、また、受け入れようともしなかった。
 
  昭和の時代、世のサラリーマンは、年功序列・終身雇用なる言葉がなくても、会社内では黙っていても、役職は上がり、賃金も増え、定年まで安楽に勤め上げることが当然だと考えられてもいた。だから、就職すなわち、それは就社であり、自身の会社人生は、その会社内の永遠でもあった。そう思い込んで、少しでもいい大学、少しでもいい会社を目指し、60歳まで、ある意味、年金生活という極楽にいたるまで、この世という、老後をも含め会社生活は永遠だと思ってもいた。これが、バブル崩壊、会社生活は、いや、老後まで21世紀に入って、永遠ではないという意識が芽生え始め、その萌芽が自覚・覚悟となり、世のサラリーマンに変化をもたらしてきた。これも、50年遅れの欧米化ともいえる現象であろう。これも、社会人としての、欧米並みの個人主義といえるものかもしれない。会社は頼れない、頼れるのは、自身の社会的スキルのみだという自覚である。これと同時に、ジョブ型だの、メンバーシップ型だの世間では、唱道、喧伝され、企業からサラリーマンに至るまで西洋化の働き方の波が打ち寄せてもいる。

 恋愛から結婚にいたる過程も、同様である。昭和40~50年代は、結婚すれば、離婚する将来など誰が予測できただろうか、いやしただろうか?皆、老人夫妻になるまで添い遂げようとする気持ちで結婚したはずである。これは、今もあまり変わらないが、令和と昭和では、平成の30年間を通して、そのメンタルに大変革をもたらした。ちょうど、そのメンタルとは、大正末期の関東大震災を東京市民がどれほど、予測していたことであろうか?当然、予想すらしていなかった。昭和の離婚は、この天災と似たものがあった。しかし、今では、令和の日本人は、南海トラフ地震など、誰もが予想、いや、起こるであろうと覚悟をしもいよう。昭和のカップルに比べ、令和のカップルは、離婚をある程度想定内なのだ。そのように覚悟している風にも見えなくもない、それと同じことである。
 能登半島地震ですらも予期せぬように起きた。大惨事、それまで、ある状況は、個人レベルの家庭内不和、離婚などと同じものであるが、令和のカップが、夫婦生活の永遠性への幻想は、昭和に比べて抱いてもいないことは、時代の変化でもある。

 こうした観点からも、日本人は、昭和に比べ、会社生活と夫婦生活において、淡い永遠なる理想像は持てなくてもなってきた。会社レベルでは、今では、様々な転職サイトが花盛りであり、個人レベルでは、晩婚化、そして、少子化という現象も、永遠性への幻滅感からである。今の生活レベルを下げたくない、シングルの自由度を減らしたくない、育児のストレスとわが子の教育費など、将来設計、これは、今の居心地のよさという永遠性を失いたくないという保守的、利己的防衛本能がそうさせてもいる。社会・会社レベルでは、永遠などない、自ら、永遠を否定しない限り、生き残れない、一方、自由の効く個人・私的レベルでは、永遠でいたい、そうすることは、ある意味可能でもあるから、そうしてもいよう、よって、晩婚、非婚、さらには、少子化と、負の連鎖に日本を巻き込んでもいる。この少子化、何も日本だけのことではないようだ。世界的規模の傾向である。世の中が、世界が、豊かになればなるほどそうした現象が起こる。この少子化は、地球温暖化のように、生物の本能を含め自然の摂理でどうもあるようだ。岸田政権の少子化対策とは、脱石油石炭発電からの脱却くらいの難しい命題なのである。お金、バラマキ政策で解決できるものではない。

 人間には、特に、農耕民族の日本人は、居心地のよい現状維持という生ぬるい気質がどうもある。江戸時代の230年でそれは強化された。会社という社会環境では、否が応でも、変化・変革を強いられる。永遠を否定される時代の流れに立たされる。これは、平成から令和にかけて決定的ともなった。地球環境同様に、社会生活などに永遠ではないことはまざまざと日々の生活から思い知らされる現今である。しかし、自らの人生においては、永遠、即ち、一生変わらずに、生きていきたいという本能が人間の内面、人生を支配してもいる。

 就職、結婚、子育て、そして退職、老後という人生を“永遠の四季”と見る人生観は、ある意味、人生を直線的な永遠とみなすことを否定し、自身の、円環的成長という観点にパラダイムシフトをしなくては、より充実した人生、「ああ!いい人生だったな!」という末期の述懐は吐けないものである。ここに、この精神的決意に、人生二毛作、三毛作、更には、理想的な、四毛作という人生設計というものが見えてもくる。



< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

このページのトップへ