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教師としての二刀流とは?

 近代以降、二刀流の著名人といえば、まず、鷗外と漱石を挙げねばなるまい。鷗外は、医師にして作家、漱石は英語教師にして作家、いわば、二足の草鞋を履いて、明治の時代を闊歩していった偉人である。また、当然ながら、彼らは、語学においてもその才が群を抜いていた。しかも、それはさておき、ドイツ語や英語に止まらず、言わずと知れた、日本の古典文学から海外文学にも当然造詣が深かった教養人でもあった。この、両者、様々な意味で、大正教養人、大正時代に活躍した作家の模範ともなるべき巨峰でもあった。

 ここで、二刀流とは、何も二芸を有する達人という狭義の意味で論を拡げたいわけではないのである。

 私が少々関わってもいる英語を教える仕事人に関してである。英語を生業にしていた知識人においても、憧憬また、敬愛の念をもって、思い浮かべられてくる学者は、西脇順三郎・福田恆存・渡部昇一・外山滋比古など英文学・英語学畑の人々、そして、国文学が専門でありながらも、英語や中国語に堪能で、仏語や独語も読み書きできた国際派古典研究者、しかも、大学受験生向けの参考書の名著『古文研究法』や『古文の読解』をしたためた多才、小西甚一、など多数おられる。彼らは、当然ながら、単なる自身の専門の範疇を逸脱した、いや超越した二刀流の学者でもあった。知の佇まいが、洋装(英語・世界史)と和装(古典・日本史)の両面でかっこよかった、いかす風貌で、ある意味、畏敬の念を抱き、彼らの言説に唸らされたものでもある。これなんぞは、まさしく、芥川が漱石に抱いていた尊崇の念に似通ってもいたような気がする。こうした思いを派生させる予備校講師のキャラが、予備校全盛時代、昭和の子供が多かった頃、浪人生を虜にする、夢中にさせる、月並みな表現だが、カリスマ講師の淵源でもあっただろうか。これぞ、知の二刀流の魅力でもあった。私も、こうした先達の末尾に入ろう、後塵を拝そうと、日々、知の鍛錬を怠らず、彼らに見習おうと、場末の英語個人塾で、英語の他に、古文や日本史、世界史を教えてもきた。英語と他教科のシナジー効果により、自身も様々な書籍を読み、蔭で研鑽を積んでもいる。

 こうした側面が、牽強付会ながら、私にとっての学びの、教えの、自己研鑽として二刀流の、修行の過程もあってきた。超分かりやすく例えれば、昭和の後半から平成にかけては、コンビニが急成長した時代でもあった。それを捩って、自身は、<知の総合商社>とは恥ずかしながら言えないが、せめて、<知のコンビニ>たらんと自覚して、精進してきたつもりである。これは、学校法人や大手の予備校で仕事をしていれば、こんなわがままな生活は無理でもあったであろう。他の教師、他の講師、つまり、“その専門の猛者”がひしめく教育環境では、校長や理事、そして経営者の視線や方針が、そうした余裕を与えてもくれなかったことは確かであっただろう。こうした、知のわがまま、自己流を貫徹できる一番環境のいい場として、少々、脱サラ以来経営というものにも未練があった、そのプチ的意欲にも関与できる塾経営、英語塾主宰というものを始めたわけである。“鶏口となるも牛後となるなかれ”、これが、齢30代以降の我がモットーでもあった。この生活の流儀は、身体が健康なうちは、自身の教えるスキルがさび付かず、時代遅れにさえならなければ、一生できる好都合も、この道を選んだ理由である。教育におけるアナログという流儀は、少数であればあるほど、その本物性{=時代を超えて、大切なものは大切であると妥協しない信念に基づいた英語教育手法=中等教育はまず、英語の読み書きが第一であるとの我が確信}という光がある限り、決して世の父兄からは、無視され、見捨てられることもない絶対是をもっているのは、ちょうど、くら寿司やスシローといった大手回転寿司チェーンが全盛期にある令和にあっても、10席足らずのカウンターの、寿司の名店が予約半年待ちくらいの人気があるのと同じ関係でもあろうか?

 この英精塾が、26年もの間、横浜や藤沢で、主宰できた遠因は、実は、英語はもちろんのこと、オプションとして教えてもきた他教科、即ち、古典、日本史、世界史、現代文、小論文といた、二刀流ならぬ、六刀流が、塾経営に間接的に寄与してくれたものと今では強く確信してもいる。英精塾の卒業生の声にそれが見事に反映されてもいる。因みに、その卒業生の声のインタビューの編集は、ホームページ制作・メンテ担当のチーム・ラボの方が全てやっている。私は、その文言を、ホームページに開示後、苦笑いしながら毎回読んでもいる次第である。私が、多刀流で文系科目を教えられる、その最大の要因、エネルギー、ヴァイタリティは、やはり、弊塾のホーム・ぺージの、私のプロフィールにも記載した、勉学上の、生活上の、家庭上の、躓き、挫折、蹉跌、これらが、教える段において、大いに寄与してくれていることは、何かしら人生の不思議を感じずにはいられない。実は、この側面に関してだが、大手の予備校を辞め、その後個人でその専門、例えば、英語や古文の専門塾を開講してもあまり成功しないのは、丁度、伊勢丹や高島屋などのカリスマ店員が、独立してブティックを開いても、そうお客はこないのと似ているかもしれない。その“暖簾の力”で、カリスマになった、間接要因を、当事者は軽視してもいるからであろうか。
 
 もう、私が35年以上住んでいる横浜が生んだ4大作家、大佛次郎、獅子文六、吉川英治、長谷川伸、彼らは、私の中で、憧憬の作家、畏敬の作家、尊敬の作家、敬愛の作家として、定着してゆくのは、バブルの時代、三田のキャンパスでフランス語や仏文学を学び、私生活では、新聞奨学生として、住み込みの勤労学生生活を送った二面的経験・二重の生活{※世の中の上層部(光の面)と下層部(影の面)を生きた経験}からである。知的インテリ、知的ブルジョワの文豪(大佛や獅子)というものの、仰ぎ見る、高き峰としての偉大さ、そして、尋常小学校卒程度の、非学歴エリート作家、大衆作家として、庶民派としての懐の深さ、市井の人々への温かい眼差し、雄大な深い大海としての偉大さを持つ文豪(吉川や長谷川)など、こうした両面ある人生を多面的に、文学の多様性を教わったという意味でも、私は、サルトルやボーボワールよりカミュやシモーヌ・ヴェイユに心惹かれる気質が養われもしたのであろうか。この気質が、塾講師という自身の生業に大いにプラスの影響を与え続けてくれてもいる。
 

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