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日本史と世界史を選択する高校生の気質①

 You cannot understand your own country, still less any other, unless you know something of its history.
 
 以上の例文の主旨を、生徒に訊くのですが、「日本史より世界史の方が難しい」という深い真意を指摘できる生徒は、多くはない!日本史まずありき、そして世界史あり。また、日本語(母国語)ありき、そして英語(外国語)あり。
 
 高校生を現場から、直に、日本史・世界史と教えていての率直な感想である。
 
 受験で日本史を選択する生徒の25%は秀才である。50%は準秀才から標準ゾーンに入ると言える。あとの25%は標準以下の愚鈍層ともいえる連中である。
 この上位25%ゾーンは、日本史を武器に、50%ゾーンは、日本史を日常生活で何ら、仕事であれ、娯楽であれ、役に立ててもいる連中であるということだ。
 
 一方、世界史はどうかと言えば、20%は秀才である。30%は準秀才から標準ゾーンである。残り50%は標準以下の愚昧層ともいえる。
 この20%ゾーンは、世界史を武器に、30%ゾーンは日常生活で、政治経済などのニュースを聞いて、その背景なりを若干でも認識する予備知識としている連中である。
 
 因みに、歴史に関しては、理系(数学や物理)とは違い、天才ゾーンは存在しない。いたとすれば、IQの超高い暗記の天才に過ぎない。それは、<人間学の天才>や<恋愛の天才>という語が誤用となるに等しいからでもある。
 
  まず、私自身の経験をも踏まえてなのだが、日本史を選択する大きな要因は、己自身が日本人であるということ、おおまかに言えば、そのルーツからして学ぶ上で親近感やリアル感がともなうという点、昔話や歴史小説や大河ドラマなど、日常の中に日々の体験が伴う、シンクロしてもくる人生を歩む。そして、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、明治という時間軸と、その時代の主役たちが、自身が生きているルーツともなっているとの意識的リアル感に結びついてもいる。天皇家と豪族、藤原貴族、源氏から北条、足利、織田から豊臣、そして、徳川と、それぞれの名称と時代がマッチングする単純性が取っ付き安さを醸し出し、漢字にさえ嫌悪感を持たなければ、すーっと、高校生で、日本史を選択する内面の雰囲気に流されて日本史という科目を選ぶのが情の必然でもある。
 
 それに対して、世界史を選択する生徒の内面はどうであろうか?あの50%が占める愚昧連中のメンタルを言い当ててみよう。
 それは、消極的世界史組でもあるということである。それは、国公立文系の高校生が、仕方なく数学を勉強するにメンタルの近いものでもある。つまり、何も、世界史が好きで、興味が湧き、その科目を選んでいるという訳ではないという現実がある。彼らは、日本史に興味がそもそもない、日本史音痴、数学くずれの連中の巣窟、それが、世界史を選ぶ半数近くのメンタルの正体である。それも、漢字が苦手、余り得意でもない、したがって、中国史以外は漢字不要の、世界史を選択する方向へと流される。また、学校当局は、日本史より世界史を選択する方針の学校も多い点、しかも、世界史の方が、“これから、グローバル社会で何となく、役に立ちそうだな~!”程度の動機である。
 
 この、日本史と世界史を選択する、いや、生徒自身で重要視する根拠は、母国語である日本語と世界共通語としての英語へ注ぐ目線と似たものを感じずにはいられない。
 
 これは、教育学、いや、言語学でも定説となっている真実だが、母国語以上に、第二外国語が伸びるはずがないという実体がある。日本語もろくすっぽ使えないヤンキーに、貿易や外交交渉などの英語の使い手になれない、なれるはずがないといった事実である。矢沢永吉が、アメリカのミュージシャンとスタジオでやりとりする英会話、旅行や個人で雑貨などを輸入販売する代理店の主人、この程度なら問題はあるまい。大手企業、商社やメーカーで求められる英語力としては、不足する、不合格である。
 おおかた、世界史を選択する高校生は、中学受験の日本史の知識の、県立高校入試の日本史の予備知識の、半分以上は忘却している連中でもある。そうした程度の連中が、果たして、世界史をどれだけ、身に付けられるのか?それは、木に竹を接ぐような暗記科目の域をでるものではない、使える歴史、生きた世界史などとは到底呼べるものではない。
 それが、日本史愚鈍層25%、世界史愚昧層50%と裁断した根拠でもある。それは、言い方を代えると、大学受験においてという条件を前提にしてのことだが、日本史が歴史積極派、世界史が歴史消極派となる分岐点、分水嶺ともなる所以である。
 
 言い方を代えれば、日本史と世界史に関しての理解認識度の濃淡は、漱石から鷗外など国文学を読んだ際の、その情景描写などへのイマジネーションの容易さと、ドストエフスキーやバルザックなどの外国文学を読んだ時の、リアル感の欠如、街並みや社会状況などを思いを馳せる困難さに似てもいるかもしれない。日本史は、幼児期から生活している日本社会の時間上の遡及的行為であるのに対して、世界史は、早くて小学生、遅くて中学生、そうした精神年齢にさしかからなければ、自身の心、頭の中で、リアル感など抱きようがない<異邦人の世界のSTORY>でもあるからだ。
 
 16才以降の少年少女にとって、日本史は、レモンサワーやハイボール程度で、口当たりのいい、飲みやすいアルコール飲料とも言える。他方、世界史は、ワインやウィスキー、時にはウォッカやテキーラといったアルコール度の高い飲み難い、取っつきにくいアルコール飲料とも言えようか。お酒の経験ルートとは、ハイボールからロックへとウィスキーの旨さを知るものである。いきなり、ロックから入って、ハイボールのルートは、なかなかお目にかからない。
 
 現代では、若者のアルコール飲料離れが進んでもるというが、そうした、ノンアルコール志向は、歴史嫌い、歴史無知、歴史回避などの若者の増加と比例してもいる。
 
 日本史が苦手、学ばずに、世界史を勉強するは、数学が不得意、理解不能にして経済学を学ぶが如し!
 
 

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