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リスキリング私見①

 岸田政権になってから、世では、しきりに「リスキリング、リスキリンング!」と連呼する光景がメディアに目につく。これは、シンガポールやドイツに見かけられる、企業と従業員が、デジタルの波で、再雇用される上で成功のための必須の要件であるそうだ。これも、「フィンランドの教育に学べ」だの、「デンマークのデジタル化を見習え」だの、それに似た、舶来モノ、輸入好きが高じてのブームらしきものである。デジタル人材が決定的に不足している現状は、明治初期の近代化と同じ宿命を孕んでもいる。
 このリスキリングと底辺で繋がってもいるのが、ジョブ型とメンバーシップ型の雇用形態の対照的現実である。これも、アメリカ型への移行を実現した、“小泉内閣の亡霊”の復活でもあろうか?世の中は、ジョブ型へと移行してゆくのが時代の必定ででもあるかのように煽っている。<民営化が善・官営が悪>というレッテルと同じものである。ジョブ型社会の到来、定着は、日本的雇用慣行、つまり、終身雇用・年功序列の完全なる終焉を意味する。

 そもそも、リスキリングなる用語は、いや、その定義上の意味合いは、何も、令和に始まったことではない。遠いところでは、8代将軍吉宗による蘭学の解禁、福澤諭吉の英語への学び直し、田中耕一氏の島津製作所における、非専門領域へのサラリーマン研究者の配置転換、もちろん、歴史上、文明の本流に自身の資質を適応・対応できた多くの成功事例があり、失敗例もあまたあった。大方の、凡庸なる庶民、大衆、会社員は、あまり参考事例などになりはしない。

 では、このリスキリングなる概念は、果たしてサラリーマンだけに該当する、できるものであろうか?そうした問いをしてみたい。

 小学校教員が、初等教育の英語教科の必須化で、英語を学び直し、時には、苦手な英語から、自己努力で脱却しなくてはならない現実がある。小学校などは、教科の‘メンバーシップ型’から‘ジョブ型’への移行、すなわち、中等教育タイプの専門性化が、ますます進んでいくものだろう。その板挟みで30,40代の中堅小学校教員が、「どうして今さら英語?」と苦悩葛藤している光景が目に浮かぶ。

 中等教育では、教育のデジタル化で、プログラミングが必須の教科となった手前、中高の教員が、そのスキルを学校の方針か、理事長の命令か、それを自身で身に付けなくてはならない現実が浮上してきてもいる。これも40,50代のアナログ教師が、デジタルネイティブに<AIの外国語>を教えなければならない、不都合、不合理な状況に立たされてもいる。これも、教員のリスキリングの一環と呼べるかもしれない。

 更に、これは、誰も口にしないことだが、平成を飛び越えて言わせてもらうと、昭和の大学生は、もちろん、ものにならなかた者が大勢を占めていたが、事実、第二外国語なるものが必須でもあった。時代の趨勢で、現代では、そのカリキュラムが残っている大学とそうではない大学がある。おそらく、実用第一主義の影響か、英語がまずできればいい、その第二外国語に費やすエネルギーがあれば、プログラミングでも身に付けて欲しいといった思惑でもあろうか、令和の大学では、事実、GAFA帝国の台頭以前から、リアリティーでは、<20世紀以降のラテン語>、つまり<世界の共通語>である<英語>をツールとするため、TOEICなどの勉強に勤しむ。様々な国民(アジア人でも)とのコミュニケーションで必要とされるからでもある。
その一方では、バーチャル(SNS社会)社会において、21世紀のGAFA帝国で、ビジネスの勝ち組ともなるプログラミングなどのC言語を、それぞれ身に付けることが、サバイバル競争の必須のアイテムともなってしまっている。令和の日本社会では、リアルでは、英米の英語を、バーチャル(仮想空間)での自由自在なスキルとしては、GAFA帝国の共用語“プログラミング”が生存競争で、なくてはならないものとなってきた。ちょっとした、便利な、また、面白いアプリ(=お金に結びつく、ビジネスとして大成するアプリ)を開発できれば、まあ、食いぱぐれがない現実は、売れっ子ユーチューバーになりさえすれば、それが生活源ともなる実態と通底してもいる。だから、極論ながら、<数学という祖父、プログラミングという父、そしてアプリ開発という孫>、この三世代系列で、少年・青年時代を経てきたもの{自己の内面での教育のキャリアの話}は、デジタル化社会の、ある意味では、勝者となりうる証である。よって、今は、英語より数学とも言えなくもない現実は否定できない。

 真のリモートワークなんぞは、私にいわせてもらえば、デジタル言語、すなわち、コンピュータに指示する、それと協働する、さらにメンテナンス(面倒を見てやる)をするなどの技能を習得していなければ、成立しないと言ってもいいかと思う。

 小学校教員の英語の再学習、中高の教員のプログラミング研修、更には、大学生の第二外国語の履修による表面的単位習得などがなかなかモノにならない。
 最後に、社会人の、特に40歳以上のビジネスマン、いや、サラリーマンのリスキリング、これは、当然、デジタル化であるが、こうしたもろもろの人生第二ステージにおける役割といったものに向き合う現実が、まるで、iPhoneの進歩・進化のように、それに適応・対応することが、外圧的、社会的に見えない義務感として令和日本の教員から社会人にまで覆いかぶさっている状況を、どう見るか、どう対処すべきか、それについて、次回、論を掘り下げてみたい。(つづく)


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