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現代文の問題に共通テストの正体が見える

 国語、特に現代文という問題形式に、共通テストの出題者の意図・目的という観点で入試問題を斬りこんでみたい。
 
 まず、中学受験における国語の問題である。これは、大方、小説が大きなウエイトを占める。それは、感受性という、知識や論理以前の土俵で、その小学生の、みずみずしい資質を見極めるためでもあろう。人生12年間しか生きてはこず、どれだけ、ある意味、読書を自身の習慣としてきたか、いや、読書以外でもいい、その感受性なるものを、如何に培ってきたかを試す問題がメインである。常用漢字や諺や四字熟語程度の知識は、おまけ程度で試す問題である。その少年少女の言語的感性をどれだけ掬い取るか、それを判別する問題ともいっていいい。ほとんどは、記述形式である。受験者数は千人前後、合格者は数百人、採点官の国語科のその学校の教師は、10~20名弱である。この国語科の人員で、一人50枚前後の問題を数日でさばくことなど訳ない作業である。表現や微妙な違いの答案用紙は、採点官同士で話しあえる場や機会もある。
 よって、中学入試の国語の問題は、記述形式で、良問が多い、大の大人が解いても、なるほどね!と共感をもてる。特に、麻布中の国語問題は、小説1題で、普通の大人も思わず唸ってしまう、よくできた良問として有名である。
 
 では、高校入試の国語の問題はどうであろうか?標準的なものとして、公立高校の現代文の問題や附属系の高校の問題、勿論、開成高校や筑波大附属駒場高校のものも含めて、これも、中学入試の国語問題とほぼ同様のことが言える。違いは、評論文というジャンルが必ず加わるという点で、16歳の思春期の、年ごろの受験生には、抽象性の初歩、そして、論理性の認識という条件が必須ともなる。これは、ある面で、小説以外の評論文やエッセイといった新書の類の本への馴染み具合、プラス、社会への問題意識の萌芽という側面も試される問題ともいっていい。それは、中学受験の国語力に中学受験の社会科の知識が融合した問題とも言えるものである。超進学校の中高一貫校の中一の生徒でも、こうした県立高校の現代文の問題は、ほぼ解けると断言できる所以である。これは、数学や英語では、当然不可能である。小学6年生に、数学ⅠAや英検準2級は、経験上無理難題でもある。これが、高校入試の国語という関所の特徴である。当然、受験者数と採点官の数でも、採点の目が行き届く。問題形式が記述であれ、きちんと受験生の国語力を吸い上げる、掬い取る、良心的な性質の問題足りえてもいる。
 
 さて、こうした、中等教育の入り口、中等教育の途中(高校入試)で課される国語(現代文)の問題と、大学入試で出題されるそれとでは、根本的にどこが違うのか?
 
 感性(小説)、抽象性・論理性(評論文)、こうしたものが、当然前提にはあるが、もっと、中等教育における国語問題とは、本質的に異なる特性がある。
 資格系試験というものは、大方、ひっかけ問題という性質を帯びている、特に、自動車免許の学科の国家試験は、とみに有名である。そのひっかけに陥らないように、自動車学校の学科の問題で鍛えられもする。たぶん、このひっかけは、問題文に敏感であれ、注意喚起を、そうしたメッセージ性があると、好意的にとらえれば、そういうことにもなる。
 
 MARCHレベルの文系の現代文の問題は、漢字やほんの一部の問題を除き、解答欄の占める割合は5~7割はマークシート形式(選択肢形式)である。所以は、受験者数の多さ、そして、採点官の多さ、これを記述形式にすると、無理がある、採点の客観性が担保できない事態ともなる。当然、自動車の免許試験の様相を呈することとなる。ひっかけ問題の性質を帯びざるを得ない。 
 そもそも、人生18年間生きてくれば、知識、ある程度の抽象性の認識度、論理性の有無など受験生には大差はなくなる。一通り、ちっと難しい新書なども読み込める。よって、線を引き引き読み通さないと、内容の理解は表面的なものとなってしまう難解な評論文である。しかも、設問は、紛らわしく、誤差の認識できない抽象的なもの、つまり、きっかけを前提をした選択肢となる。
 
 こうした、18歳以上の、いっぱしの受験生にも、感性はある、ないものは、我流の想像力で、センター試験・共通テストの小説に対峙する。これが、主観性とそこから派生する類推の魔というものが本番で介在してくる、引っかけの穴に落ちる。厄介である。特に小説の問題で多い。しかも、その択肢が、練りに寝られたひっかけの悪意(?)に満ち満ちている問題である。
また、共通テストの一番目においてだが、様々な概念や観念といった知識を有し、ある程度の思考力を持ち合わせていても、論説文の問題で足をすくわれる、こうした、ひっかけ問題の権化ともいえるのが、センター試験からの伝統的特性を有する共通テストの正体である。時間とひっかけの戦いがメインともなる。
 
 特に、大学入試の現代文の問題は、私大であれ、特に、1月の第二週に毎年行われる国民行事的試験の問題作成の隠れた魂胆ともなっている。その隠れた魂胆を隠すため、表現力だの、思考力だの、判断力だのといった綺麗な仮面を被って、このMr.マークシート問題を権威化しているのである。
 こんな、権威の象徴的マークシート問題で、高得点をゲットしても、その後の、その学生の表現力・思考力・判断力など保証してはくれない。ちょうど、ドラフト1位で、プロ野球界に入った、優秀な甲子園球児が、どれほどプロの世界で埋没していったか?それと比類する関係性を有するというのが、この共通テストの問題、特に、現代文の特質でもあろうか?
 結論を言おう。大学入試における現代文の問題という特性とは、その受験生の資質や能力といたものを掬い取る好意的・善意的問題ではなく、如何にその受験生の問題処理能力、それもAIのやる作業を生身の人間に課している問題であるか、また、どれだけ、その受験生をゲーム感覚、いや、自動車免許試験のひっかけ問題のごとく、ひっかけて、いかに高得点を取らせないか、性悪的・悪意的問題であることだけは声を大にして言っておこう。
 では、次回、この現代文という入試における、高等教育に入る上での存在意義に横やりを入れる観点から、国語問題をどう大学は出題すべきかを語ってみたい。(つづく) 

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