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暗記力より記憶力、記憶の量よりその質

 暗記力と記憶力、そして記憶の量と質というものについて考えてみたい。
 
 記憶とは、脳裏・脳髄に意識的に定着した情報・知識・思い出などを指す。一方、記憶力とは、そうしたデータをどれだけ多く容量として保持きるか、それも、短期間でという留保がつくが、その性能ともいっていい機能のことを言う。
 
 ここで、一般的に、受験や試験といった類は、この記憶(暗記)の容量の多寡を量るバロメーターというのは、一般的認識でもあろうか。大方の、資格系の試験から大学受験、そして、中学受験にいたるまで、この記憶の容量を試すという面が、試験の実相ともいっていい。いわゆるカンニングが悪とされる淵源はここにある。会社的次元では、データの改ざん、製品(自動車・家電製品)の検査偽装と同類とみなされるからである。
 
 そうした記憶力を中等教育以下に次元を下げると、それが暗記力ともなる。生来の暗記力の性能が、受験でものを言う。暗記力の少々苦手な生徒は、ゴロで年代を暗記したり、独自の英単語集を自身で編み出して、英単語の語彙を増やす工夫をする。小学生なら、我が子の周囲、トイレやリビングに世界地図や歴史年表を壁紙の如く貼りめぐらし、その子の中学受験で必要な社会科の知識を覚えさせようともする。この最右翼が、子ども4人を東大医学部に合格させた佐藤ママこと、佐藤亮子の手法である。彼女のマジックは、暗記から苦痛を連想する暗記を行わせない手法にある。『受験は母親が9割』(朝日新聞出版)や『受験で合格する方法100』(ポプラ社)を読むと、その理念が通底していることがわかる。結局は、我が子が、友人や環境の影響で、スマホをいじる習慣やゲームをする趣味が当たり前とは思わず、勉強をする行為が自然で、当然でもある、苦痛ではないと思わせる環境を作ること、それが、親の受験というものを考慮した時、<教育の要諦>であることもわかってもくる。
 
 本来、記憶力のある人は、佐藤ママなどの母親や良き講師のいる塾などなくても、暗記に努力など不要である。また、その人が、歴史、英語、数学など内発的に興味のあるものならば、苦も無く、その知識が、乾いた土に水が吸い込まれるように、“脳内地層”を豊かに潤してもくれる。そうした脳髄では、<様々な農作物>が育つ。以上の部族でない限り、暗記するという行為は苦痛の何物でもない、いや、<自己との格闘という修行>にすら近い行為でもある。その何物でもない苦痛に耐えるのは、その先の、合格という栄誉、さらにその先の、明るい幻想的未来{その資格をとれば安泰な所得が待ち構えているという妄想}を期待してもいるからだ。その明るいと思い込む未来が、中学入試後、大学入試後、はかない幻覚であると気づいた少年、青年が、その中学校、その大学で、成績が下降し、また、高等教育(大学)の講義に興味を失ってもゆく現実は、世俗的教育の現実として、凡庸な努力家には痛いほどわかる。ちょっとばかり可愛いくらいで、芸能界入りし、女優としても、アイドルとしても、タレントしても大成せずに消えゆく芸能人に似ていなくもない。それは、辛辣に言わせてもらえば、その中学生、その大学生、まるで犬や猿に芸事を覚えさせるがごとく、棒暗記、無機質暗記に明け暮れた、成れの果てともいっていいかと思う。その暗記の知識なりが、有機的に次の段階で、ステップアップしていないのである。それは、昭和のスポーツの根性トレーニングの象徴、うさぎ跳びの如し暗記であるからだ。
 
 しかし、手法は、ゴロであれ、何であれ、自身の内発的な学びの興味・関心が、成長してゆけば、その丸暗記という行為によってもたらされた知識は、苗木のように成長してゆくものである。ここにある真意とは、その成長に気づいた時、“学びとは面白い!”という実感が湧きあがってくる人間に成長した証に存する。「かわい子には旅をさせよ」「苦労は買ってでもせよ」「艱難汝を玉にする」これらは、学びの苦労が、豊かな果実として生長した人間の学びの成果として経験したものにのみ吐ける言葉であるが、その学びが、無機質な暗記が、10代で止まった者、有機的な暗記が、生産的な記憶へのステップアップした者、そのリトマス試験ともいえる格言である。旅、苦労、艱難、これらが体験で終わった者、経験に昇華した者、その差でもある。
 
 
 興味・関心もなく、無機質に暗記して、小さな完成品という日本史・世界史という自身の教養、いや、教養といったものではなく、データに近い知識より、何らかの興味を抱き、どことなく面白いと感じて、不完全にしか暗記しなかった、大きな未完成という日本史・世界史のほうが、その後、学び直し、スキルアップという条件付きだが、その方が、断然小さな完成品という知識というより、有望で、伸びしろのある、未来へ啓けた教養とも呼びうるものの“卵”にすらなりうる。そこに、人生という長いスパンにおける学びというものに秘儀があるようで仕方がない。その大きな未完成品を生涯にわたり構築してゆくこと、そこにも、「何故学ぶのか?」の命題の存立基盤、いや、回答がある。高校生、大学生の頃、英語が不得意、歴史に興味なし、政治経済など履修もしなかった者が、その後、英語の使い手となり、歴史と政治、地理などが融合した地政学とうジャンルの玄人はだし並み知識を身につけるまでになるなど、十代に知識ゼロ、また、興味なし、しかし、不完全ながら、その荒れ地、非耕作地をメンテナンスし、豊饒なる畑、農園にまで成長させる営みに、この記憶がらみの学びというものが、似ているという点で、カルチャーの語源を思い起こさずにはいられない。
 
 このカルチャー(文化・教養)は、カルティベ(耕す・栽培する)という語からきている事実は、その耕されたその結果、それこそ、教養であり、文化ともなる。これ、人の一生にも準えることができよう。「人間死ぬまで勉強だ」「明日死ぬと思い今日を生きよ。永遠に生きると思い学べ」という格言の真意はそこにある。
 
 暗記力、それは、体力と同じように、人生という長丁場では、中年以降そんなに大差はなくなる。ここに、成人以降は、暗記力ではなく、記憶力という言葉が使われる意義がある。問題は、暗記という、それも、使える暗記、自身を生かす暗記が問題である。これをまた別の見方で、記憶とも言い表せられる。
 この暗記、いや記憶の中身、それが、生き生きとした思い出、体験、それは、精神を溌剌とさせる。一方、記憶の結晶体、それが、外部に向けた武器ともなる知恵であり、内部を制御する智慧ともなりうる。知恵は、社会科学のスキルであり、智慧とは、人文科学上の嗜みでもあろう。この両面が備わって初めて教養足りえるのである。
 暗記力がない、記憶力に自信がない、そうした者でも、試験のあるなしに関係なく、覚えるという行為に生涯向き合わねばならない。
 
 お笑いタレントのなかやまきんに君が、先日テレビで面白いことを言っていた。「お金は使えば減ってゆく。筋肉は使えば使うほど増えてゆく」記憶とは、その人間のアイデンティティー的地層である。「一人の老人が死ぬことは、一つ図書館を失うことである」これを自身が強烈に自覚したとき、AIをものともしない、自身の、固有の記憶(自身の図書館)へのプライドが生まれるのである。こうしたAIへの、この知的優越感とは、記憶の量ではなく、その質にあることを自覚した者だけが持てるものだ。国家の価値とは、その面積や土地の採掘資源・収穫物の量をいうのではない、そこの国民の気質とその気質から生まれる世界への、政治的・経済・文化的影響力にあることと同類でもある。ここに、記憶の量ではなく質が認識できる、人間のAIへの優位性というものがある。これとシンギュラリティーとをごっちゃ混ぜにしてはいけない。ここがまた、令和の教育の理念ともしたい面である。
 
 記憶とは、記憶すればするほど、当り前ながら、増えてもゆく。これは無意識層に下りてゆくことが多いのだが、思い出としての記憶、これが、家族旅行や学校生活、教室の授業の一場面、自宅の勉強部屋の光景でもあろう。格闘した意識的記憶、それが、社会的武器として、人生に何等かの恩恵を与えてもくれる。記憶力なき者が、人生後半で幸せを迎えるか否かは、この、結果としての記憶の多様性・豊饒性にある。
 子ども、青年時代に病弱でも、健康体質の竹馬の友より長寿を全うするケースが少なくない。こうした事例を鑑みても、暗記力が勝る少年が、必ずしも、成人して、<暗記力プラス戦略>が“変貌”した<記憶力>がものをう人生では、勝者となるかはわからないものである。また、人生とは、短距離能力的暗記力というより長距離能力的記憶力そのものがものをいう。しかも、その記憶の量ではなくその質に依るものである事を、若き令和の、受験と直面している高校生に肝に銘じていて欲しいものである。暗記力に依拠した記憶(受験で必死に暗記したもの)など、人生90年の君たちにとっては、屁でもなんでもないということに気づいてもらいたいものである。(つづく)

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