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理系と文系、どうして分かれるの?③

 今般、4技能を試す、民間資格試験が頓挫しました。いわゆる、<読み・書き・話し・聞く>という側面を、公的機関であるセンター試験では、限界がある、無理あがる、よって、公的機関でダメなら、民間委託だ、理想的な4技能を測れるノウハウを持つ英検協会やらベネッセなどに英語だけ、<切り売りしてしまえ>的論理、実は、ベネッセに対しての、英語と国語・数学記述形式等<問題民間払い下げ事件>のようなものです。日本史を学んだ人なら苦笑するでしょうが、明治時代の<北海道開拓使官有物払い下げ事件>に<似て非なるもの>の逆ではありませんが、<非なるも似ている>とさえ言えないでしょうか。
 
 「4技能を試す試験は悪くない」また、「4技能を伸ばす教育は必要だ」と、このたび頓挫した英語民間試験に関して様々な評論家・有識者・政治家がコメントしてはいますが、私は敢えて言いたい、「4技能など、学校で伸ばすなどは、夢のまた夢だ」と。「いや、むしろそういうシステムを組めば組むほど、学校の英語の授業は空洞化する」、また、「読み、そして少々書く授業に徹するべきである」と。
 
 アメリカ型の、学力以外のボランティアやスポーツなど、様々な側面から生徒を測る試験、学力・性格・リーダーシップなどAOで試験する制度になればなるほど、そうした学校以外での“文化資本”がものを言う社会になってしまうのです。学力“判定”格差社会です。
 
 <読む>能力は、高校3年の段階で、8割以上を確保する。そして、<書く>能力は6割、<話す>能力は3割、<聞く>能力は5割程度、この程度でよしとすべきです。英語検定準1級の問題を基準にしての話しであります。大学生になって、<読み>以外の能力を徹底的に鍛えればいい、しかし、大学当局は、教える能力に欠けている、2~3流大学の理工系学生で高校の段階で物理を履修してこなかった<できそこないの学生>に、大学教授や講師ではなく、予備校講師に来ていただいて、再度お勉強させる実態を考慮すれば、英語とておなじ現実が透けて見えてくるというものです。
 
 さて、英語における<4技能>を、高校の<数国理社>の4科目に擬えてみようと思います。
 
 仮に、英語における読み=数学、書く=理科、話す=社会、聞く=国語としましょう。英語を除き、初等中等教育における4大科目であります。
 
 英語は、4技能を全て平等に扱う今回の民間資格試験{<読み・書き・話し・聞く>を全て不可解なるかな、不合理なるかな、全て100点満点とするシステム}なんぞは、口やかましく、話し・書く能力も測れと下村博文元文科大臣、一部の有識者などが強要したようですが、ならば、大学というリベラルアーツを根幹とする高等教育において、数学がちんぷんかんぷん、物理や化学の最低限度の知識すら持たない私立文系の学生がMARCHなどに入学してくる実態。はたまた、ウエストファリア条約の重要性や応仁の乱の意義などはもちろん、第一世界大戦や第二次世界大戦の原因(引き金)すらも知らないMARCHの理系学生{※私立理系の学生は社会科の知識が私立中学の入試がマックスで、それ以降下降線を辿るのが悲しい現実でもあります}がうようよキャンパス内にいる実態など、一部の高校教師や見識ある極少数の大学関係者しかご存じないかもしれません。
 
 英語4技能を均等に測る、思春期の人生の進路を決めかねない大切な大学入試に、英語という科目のみ、<人質>に取り、4技能など無理やり伸ばそうという姑息な心根から、民間業者(ベネッセや英語検定協会)を潤し、そのキックバック(?)いや、超教育改革断行英雄気取り文科大臣の独善短史眼的理想主義が、今回馬脚を現したといった方が適切かもしれません。<安倍首相:加計学園=下村元文科大臣:ベネッセ>の比の関係が想像できないでしょうか?
 英語における4技能を導入するよりも国家の急として、また、一般的通念「日本大学は入り難く、出易い」を改革する一番手っ取り早い手法として、高校生の段階で理系・文系を決めない教育方針・カリキュラムを導入した方がどれほどましか!実際、現代の大学は、四半世紀前、半世紀前に比べ断然、確実に入り易くなっているのが実態です。勿論、出易いのは相変わらずですが。
 
 4技能英語民間試験で、高校生を“いじめる”くらいなら、いっそ、大学入試において理系文系に関係なく、前者には、国語や社会を、後者には、数学や理科を入試で必須の科目にする、いわば、昭和時代の共通一次試験のように、数国英でそれぞれ200点、社会2科目で200点、理科2科目で200点、合計1000点満点の時代に戻せば、理系・文系なんぞとは言ってはいられない教育界ともなるのでしょうが、少子化社会の中で、大学経営が絶対要件となっている趨勢で、大学という存在の駅弁大学化・専門学校化・高等学校化といった時代の流れには逆らえないでしょうし、7~8割の大学は猛反対することが目に見えています。これも、高校生・大学“いじめだ”の連呼とあいなるでしょう!もちろん、現場の高校生も異議を唱えることでしょう{易きに流れ、学ぶ苦しさを避けようとする気質がモンスター化しています。その典型が、知らないことが、恥ずかしとは全く思わない気質がもろにそのことを証明してもいます}。さらに、2~3流大学は、さらに強固の導入に反対するはずです、なぜならば、<数国社理>を課す大学は、受験者数が激減することが目に見えているからです。
 5教科1000点満点から、センター試験の5教科900点(800点)、さらに、科目のアラカルト方式{※レベルの低い大学の客寄せパンダ}の導入、そして、私立大学のセンター試験枠の採用、最悪なのは、私立大学の入試問題の大手予備校への発注委託といった入試制度の世紀末現象がいまや訪れようとしています。
 
 ゲイツにしろ、ザッカ―バーグにしろ、ジョブスにしろ、ハーバード大学などの中退者です。大学が、超秀才から天才を教える場ではないことは、洋の東西を問わず証明済みです。将来研究者となる学生は話しは別です。ホリエモンこと、堀江貴文にしろ、GAFAの創業者は、実のところ、18歳という中等教育において、将来の知の“ひな型”がすでに形成されていたという瞠目すべき事実であります。皮肉まじりに言わせてもらえば、知のミドルゾーン以下にこそ、高等教育は、その役割が必要なのかもしれません。
 
 結論を申しましょう。英語の4技能を民間試験で試す<姑息な入試システム>を導入するくらいならば、そうした英語教育理想論者は、どうして、リベラルアーツの観点から、はたまた、欧米の理系文系など区分けがない中等教育を見習い、高校生の段階で4技能ならぬ、4大科目(数理社理)を義務づけないのか、必須化を取り入れないのか。つまり、1980年代の共通一次方式に立ち返らないのか、そうなれば、共通一次試験で、記述試験を採点できる可能な受験者数に絞り込み、その残りの数千人単位に対して、二次試験で記述形式問題を課せばいいだけのはなしです。そうなれば、英語の、<書く・話す>能力も確実に、精確に測れます。何も、数十万人単位で数学・国語の記述問題を行う不合理性・不自然性・限界など一挙に解消する、また、民間英語試験の導入など不要、そう思うのですが、如何でありましょうや?
 
 大学入試で、英語の4技能<読み・書き・話し・聞く>を試す方式を導入するくらいなら、いっそ、全ての大学で<数国理社>を必須にする一昔前の共通一次方式、即ち、4大科目<数国理社>を試すシステムにどうしてしないのか、英語という技能を中等教育に期待するより、知の総合性<数国理社>を優先すべきというのが、まっとうな教育改革と思われるのです。

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