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コラム
アクティブ・ラーニングの正体
これから英語教育とは、一見関係がないと思われがちな、アクティブ・ラーニングに関して、語ってみたいと思います。これも、2020年以降、初等・中等教育で、率先して取り入れてゆく方針だと文科省は公言しているので、このアクティブ・ラーニングとやらの、学び方改革が、実は、“使える英語”宣言と同じ病根から派生したものだという私見を述べてみたいと思います。
アクティブ・ラーニングが掲げた錦の御旗は、従来の詰め込み教育・暗記主義、こうしたものが、教育上行き詰まりを見せているという確たる根拠もなしに、のびのび・自由に生徒の自主性を尊重した学習方針に、世の親御さん・生徒たちを欺く、一種、体のいい、“ゆとりの知育”を装った化けの皮を剥いでみると、“ゆとり教育”以外の何ものでもない実態があらわれてくることをまず主張したい
そもそも、アップダウン形式、いわゆる、教師が一方的に教えるスタイル、また、知識詰め込み教育を否定し、ボトムアップ形式、つまり生徒がやる気を出して、内発的に、何かを探求する姿勢ばかりを肯定する、ある意味、生徒の学習意欲に対しての性善説に基づく教育スタイルというものの中に、英語教育の、文法・訳読を否定とまでは言わないが、軽く扱い、聞く・話すという実用性重視にシフトした、実態は、トラベル英会話に毛が生えた程度の英語力しか身に付かない浅薄・無責任な、今般の2020年の英語教育大改革と同質のものが透けて見えてならないのです。
「いや、何も、知識を教授したり、暗記することを否定しているわけではありません、その度が過ぎることが問題なのです」と文科省の連中は、国会答弁と似た、逃げ口実を必ず吐くものです。「いや、文法や訳読を否定はしてはいません、その度が過ぎることが、生徒に英語嫌いを生む元凶になるから、ほどほどにして欲しい」といった、曖昧、グレーゾーンの、逃げ口上とまったく同じものです。事後訂正が効くずるい方便とやらです。
「これからは、パソコン、ネット社会である。あと数十年もしたら、試験会場にパソコンが持ち込み可となり、暗記しているその知識量など関係なく、その試験会場で、如何に、ネットで検索し、その組み合わせ、問題提起、そして、独自の解決法などを試される受験時代が到来する、であるから、知識など暗記していてもこれからは、生き残れない」といった、文科省の方針を支える論陣を張る言説を、よく知識人あたりが吐く、メディア上での光景がよく見かけられます。ここで、敢えて、「そうした、これからは、英語なんか学ばなくても、会話のほとんどはAIを搭載したスマホあたりがしてくれるので、やっても無駄だ」といった論調と同じものがあることを指摘したいのです。まさしく、そんなAIがやってくれる程度の“使える英語”“生きた英語”など、むしろ学校という場では教えることが、不要となるのです。これからは、むしろ、それとは真逆の“難解な内容の英語・知的な英語”“古典的英語・教養英語”、こうした、AIでは、まだ当分太刀打ちできない領域の英語を下支えしている、しっかりした英文法や高度な読解手法(構文力)を学校で、むしろ徹底的に教え込むことこそ必須となるのです。“使える英語”や“生きた英語”は、AIに任せ、教師は、英語という根本の仕組み、つまり、英文法や英文和訳・読解・高度な英作文に専念することこそ、その生徒たちの将来のためにもなり、それこそが、学校英語、英語教師のレゾンデートル(存在理由)となるのです。前者は、日本工学院などの専門学校で学ぶIT知識、工学知識であり、後者は、東工大や東大で学ぶ、最先端のIT理論であり、ノーベル賞へとつながる工学理論でもある。
公立の中学校、高校で実施される、アクティブ・ラーニングなるものがどの程度のものか、お里が知れていると言わざるをえない。
アクティブ・ラーニングとやらは、灘・開成、それに準じる私立の進学校は十分可能であろう。事実、文科省がそんな言葉を、公言する以前にとっくの昔に、私立の超進学校では、そうした教育を実践しているもいるのです。灘の伝説ともなった、橋本武先生による『銀の匙』の授業など、その典型でしょう。こうした授業は、また、公立中学高校などではまず不可能といってもいい。県立翠嵐高校、県立浦和高校などのナンバー校なら、まともな授業も可能ではあろうが、そうした、その県の超進学校だけが、まともなアクティブ・ラーニングが可能とさえ言えるのです。神奈川県の、某私立のマンモス有名進学校なんぞは、まるで文科省にしっぽを振るかの如く、アクティブ・ラーニングを率先して採用しているようだが、その実態は、その程度・レベルが知れているというものです。その根拠は、これから申し述べるとします。
明治大学教授の斉藤孝氏の弁だったと思います。なぜ、暗記が大切か?なぜ、出来るだけ多くの語彙・言葉・単語を覚えておくこが必要か?その単純明快な発言を次のように説明しています。
例えば、100万画素と、500万画素のデジタルカメラがあるとする。勿論、後者のほうが、画像をきれいに、鮮明に映し出す。更に、1000万画素のものがあれば、それ以上に、まるで画像とは思えないようなリアルな描写ができる。これと同様のことが、人間とその語彙数にも言えるというのです。小学生の作文なら、当然語彙数の多彩な生徒の方が、自分の気持ちを直截に書ける。高校生の小論文ならば、語彙数を自在に使いおおせる生徒が、物事を的確で、簡潔に、相手(採点官)にアピールできると斉藤氏は主張しているのです。つまり、それは自身の頭の世界をほぼイメージ通りに相手に、“写真で写し取ったように”伝えることでもある。勿論、英語の自由作文で決定的に優劣がでるのが、この英単語の多寡なのです。現代文の、“本文中の表現ではなく、自分の言葉で30字で述べよ”形式の、よく見られる設問などは、まさしく、この生徒の語彙力の多彩さ・的確さをも試しているのです。
フランスのバカロレア試験では、必須の哲学の論文問題というものが有名です。理系文系を問わず、このディセルタシオン(論文問題)に、4時間をかけて、知識と思考とを総動員して試験会場でリセ(高校)の学生は、挑み、格闘するのです。
その問題は、「先入観はすべて間違いであるか?」「自由・平等という大切な理念があるが、果たして、その両者は両立できるのか?」など、歴史や哲学、思想など、様々な脳髄に集約されている“知”を総動員して、その難題に取り組むのです。そうです、ただ、巷のおじいさんやワイドショーをテレビで観ている主婦が、安倍政権にコメントするのとはわけが違うのです。まず、自身の“知”をその課題から、緻密に論理構築し、独自の“世界観”“思考体系”を書きあげなければならないのです。恐らく、その哲学論文は、その生徒が、知識(いも虫)から知恵(さなぎ)、そして、知性(蝶)へと成長していく頭脳を有しているか否かを判別しているのでしょう。そして、その生徒が大学生になれば、その知性を叡智(ノーベル賞級の頭脳・文明の進歩へ貢献できる頭脳)へと更に飛躍させる修行が待ち構えてもいる。そのリトマス試験紙的関門が、このディセルタシオンなのです。高校でやっている英会話の時間、通称“生きた英語・使える英語”の時間なんぞは、おじいさん、主婦の印象批評以下、思いつきの感想以上程度の何ものでもない。しかし、文科省は、本音では、それ以上をお望みのことだと思われます。現場・現実を知らないからです。
東大の世界史や日本史の2次の論述形式の問題もそれに近いものがあります。私の記憶では、金閣寺と銀閣寺の二枚の写真を見せて、違いを論じさせる問題など、麻布中学の社会の問題で、聖徳太子と足利義満の対外(中国)政策の違いを書かせる問題などなどです。まず、具体的な知識がなければ、予選敗退です。ここの段階で、一般の文科省よりの言説が、如何に知識が大切かが、主張されなさ過ぎます。また、日本史だけを学んだ生徒と、日本史の外に世界史をもきちんと学んだ生徒の違いです。分子を日本史、分母を世界史にした歴史観を身に付けた生徒{※ライフネット生命の創業者で、立命館アジア太平洋大学学長でもある出口治明氏のような‘知’を身に付けた生徒}の方が、断然、世界のエリート学生に対抗もでき、日本史も多面的に概観できる。外国語の勉強でも同様です。英語の外に、もう一つフランス語やドイツ語、中国語を身に付けた外交官、商社マンなどの方がつぶしが効く、さらに、英語のみならず、ラテン語やギリィシア語の古典の教養を備えた英文学者の方が、厚みがでる。よく生徒に言う事ですが、高校の英語の教師は、英語学科出身の人{※TハイスクールのY講師など}には、あまり、知的な生徒は引き寄せられない、魅力を感じられないという風評などもその辺が根拠になっています。
徹底的に、まず知識を頭に叩き込むことなしに、アクティブ・ラーニングなんぞを実施したならば、明治か大正の尋常小学校上がりの丁稚奉公の12歳の生意気小僧を輩出する羽目と相成る。底の浅い屁理屈・言い訳・青臭い“耳学問”、また聞きの受けり知識など、したり顔で語る小生意気な少年・少女を大量生産するのがおちというものです。それでも構わないというなら、それもよしとしましょう。「英語をしゃべりたい、話したい!」と、読み、書き以前に、すぐ主張する生徒は、この戦前の屁理屈小僧と同じメンタルでもあるのです。
知識など覚える必要がないネット社会で、“すぐ検索すれば済む知識の習得など二の次、それを組み合わせたり、問題を剔抉したり、解決法を提起したりする思考能力を鍛えるべき”論が、現在幅を利かせている。この主張こそ、アクティブ・ラーニングの根本原理(ドグマ)である。ここで敢えて言わせてもらえば、慶應大学文学の英語入試問題を例にあげましょう。この2時間を要する長文問題は、紙の英和辞典と和英辞典の持ち込みが可となっているものです。しかし、現実に、試験会場で、「英単語は覚えなくていい」「英単語は弱い」といった語彙力貧弱な受験生、英語暗記消極的生徒が、これぞとばかりに飛びつき、単純な理由で受験する人に限り、落ちる。会場で、しょっちゅう何度も辞書をぺらぺらめくって時間が足りなくなる。それに対して、やはり、そこそこの数の英単語を覚えている受験生が、数回ほど、辞書で確認程度で、済ます、そして、その生徒が合格する。実は、このケースこそ、一見、知識を覚える必要がないかにみえる現代社会{昭和の頃に比べ他人の電話番号を覚えている人が絶滅危惧種になっている事例が典型であろう}において、実用性ではなく、非実用性の世界、即ち、知の領域ではやはり、使えるツールとしての知識が頭の中にすでに入っていなければ、小回りが利かない、臨機応変に、即、対応できないハンディを背負うことになってしまう点を指摘する者があまりに少なすぎるのです。
2020年から表舞台に立つ、4技能による使える英語、アクティブ・ラーニング、プログラミング教育、これら3要素は、本来であれば、高等教育の大学の場で行うのが、理に適っているのです。それを、中等、初等教育に責任転嫁、大学自身が不能であるがゆえに、下の教育課程{中等・初等教育}に、無責任にも、ほっぽり投げ、これが、今般の安倍政権下の文科省主導による教育改革の実体です。
アクティブ・ラーニングが掲げた錦の御旗は、従来の詰め込み教育・暗記主義、こうしたものが、教育上行き詰まりを見せているという確たる根拠もなしに、のびのび・自由に生徒の自主性を尊重した学習方針に、世の親御さん・生徒たちを欺く、一種、体のいい、“ゆとりの知育”を装った化けの皮を剥いでみると、“ゆとり教育”以外の何ものでもない実態があらわれてくることをまず主張したい
そもそも、アップダウン形式、いわゆる、教師が一方的に教えるスタイル、また、知識詰め込み教育を否定し、ボトムアップ形式、つまり生徒がやる気を出して、内発的に、何かを探求する姿勢ばかりを肯定する、ある意味、生徒の学習意欲に対しての性善説に基づく教育スタイルというものの中に、英語教育の、文法・訳読を否定とまでは言わないが、軽く扱い、聞く・話すという実用性重視にシフトした、実態は、トラベル英会話に毛が生えた程度の英語力しか身に付かない浅薄・無責任な、今般の2020年の英語教育大改革と同質のものが透けて見えてならないのです。
「いや、何も、知識を教授したり、暗記することを否定しているわけではありません、その度が過ぎることが問題なのです」と文科省の連中は、国会答弁と似た、逃げ口実を必ず吐くものです。「いや、文法や訳読を否定はしてはいません、その度が過ぎることが、生徒に英語嫌いを生む元凶になるから、ほどほどにして欲しい」といった、曖昧、グレーゾーンの、逃げ口上とまったく同じものです。事後訂正が効くずるい方便とやらです。
「これからは、パソコン、ネット社会である。あと数十年もしたら、試験会場にパソコンが持ち込み可となり、暗記しているその知識量など関係なく、その試験会場で、如何に、ネットで検索し、その組み合わせ、問題提起、そして、独自の解決法などを試される受験時代が到来する、であるから、知識など暗記していてもこれからは、生き残れない」といった、文科省の方針を支える論陣を張る言説を、よく知識人あたりが吐く、メディア上での光景がよく見かけられます。ここで、敢えて、「そうした、これからは、英語なんか学ばなくても、会話のほとんどはAIを搭載したスマホあたりがしてくれるので、やっても無駄だ」といった論調と同じものがあることを指摘したいのです。まさしく、そんなAIがやってくれる程度の“使える英語”“生きた英語”など、むしろ学校という場では教えることが、不要となるのです。これからは、むしろ、それとは真逆の“難解な内容の英語・知的な英語”“古典的英語・教養英語”、こうした、AIでは、まだ当分太刀打ちできない領域の英語を下支えしている、しっかりした英文法や高度な読解手法(構文力)を学校で、むしろ徹底的に教え込むことこそ必須となるのです。“使える英語”や“生きた英語”は、AIに任せ、教師は、英語という根本の仕組み、つまり、英文法や英文和訳・読解・高度な英作文に専念することこそ、その生徒たちの将来のためにもなり、それこそが、学校英語、英語教師のレゾンデートル(存在理由)となるのです。前者は、日本工学院などの専門学校で学ぶIT知識、工学知識であり、後者は、東工大や東大で学ぶ、最先端のIT理論であり、ノーベル賞へとつながる工学理論でもある。
公立の中学校、高校で実施される、アクティブ・ラーニングなるものがどの程度のものか、お里が知れていると言わざるをえない。
アクティブ・ラーニングとやらは、灘・開成、それに準じる私立の進学校は十分可能であろう。事実、文科省がそんな言葉を、公言する以前にとっくの昔に、私立の超進学校では、そうした教育を実践しているもいるのです。灘の伝説ともなった、橋本武先生による『銀の匙』の授業など、その典型でしょう。こうした授業は、また、公立中学高校などではまず不可能といってもいい。県立翠嵐高校、県立浦和高校などのナンバー校なら、まともな授業も可能ではあろうが、そうした、その県の超進学校だけが、まともなアクティブ・ラーニングが可能とさえ言えるのです。神奈川県の、某私立のマンモス有名進学校なんぞは、まるで文科省にしっぽを振るかの如く、アクティブ・ラーニングを率先して採用しているようだが、その実態は、その程度・レベルが知れているというものです。その根拠は、これから申し述べるとします。
明治大学教授の斉藤孝氏の弁だったと思います。なぜ、暗記が大切か?なぜ、出来るだけ多くの語彙・言葉・単語を覚えておくこが必要か?その単純明快な発言を次のように説明しています。
例えば、100万画素と、500万画素のデジタルカメラがあるとする。勿論、後者のほうが、画像をきれいに、鮮明に映し出す。更に、1000万画素のものがあれば、それ以上に、まるで画像とは思えないようなリアルな描写ができる。これと同様のことが、人間とその語彙数にも言えるというのです。小学生の作文なら、当然語彙数の多彩な生徒の方が、自分の気持ちを直截に書ける。高校生の小論文ならば、語彙数を自在に使いおおせる生徒が、物事を的確で、簡潔に、相手(採点官)にアピールできると斉藤氏は主張しているのです。つまり、それは自身の頭の世界をほぼイメージ通りに相手に、“写真で写し取ったように”伝えることでもある。勿論、英語の自由作文で決定的に優劣がでるのが、この英単語の多寡なのです。現代文の、“本文中の表現ではなく、自分の言葉で30字で述べよ”形式の、よく見られる設問などは、まさしく、この生徒の語彙力の多彩さ・的確さをも試しているのです。
フランスのバカロレア試験では、必須の哲学の論文問題というものが有名です。理系文系を問わず、このディセルタシオン(論文問題)に、4時間をかけて、知識と思考とを総動員して試験会場でリセ(高校)の学生は、挑み、格闘するのです。
その問題は、「先入観はすべて間違いであるか?」「自由・平等という大切な理念があるが、果たして、その両者は両立できるのか?」など、歴史や哲学、思想など、様々な脳髄に集約されている“知”を総動員して、その難題に取り組むのです。そうです、ただ、巷のおじいさんやワイドショーをテレビで観ている主婦が、安倍政権にコメントするのとはわけが違うのです。まず、自身の“知”をその課題から、緻密に論理構築し、独自の“世界観”“思考体系”を書きあげなければならないのです。恐らく、その哲学論文は、その生徒が、知識(いも虫)から知恵(さなぎ)、そして、知性(蝶)へと成長していく頭脳を有しているか否かを判別しているのでしょう。そして、その生徒が大学生になれば、その知性を叡智(ノーベル賞級の頭脳・文明の進歩へ貢献できる頭脳)へと更に飛躍させる修行が待ち構えてもいる。そのリトマス試験紙的関門が、このディセルタシオンなのです。高校でやっている英会話の時間、通称“生きた英語・使える英語”の時間なんぞは、おじいさん、主婦の印象批評以下、思いつきの感想以上程度の何ものでもない。しかし、文科省は、本音では、それ以上をお望みのことだと思われます。現場・現実を知らないからです。
東大の世界史や日本史の2次の論述形式の問題もそれに近いものがあります。私の記憶では、金閣寺と銀閣寺の二枚の写真を見せて、違いを論じさせる問題など、麻布中学の社会の問題で、聖徳太子と足利義満の対外(中国)政策の違いを書かせる問題などなどです。まず、具体的な知識がなければ、予選敗退です。ここの段階で、一般の文科省よりの言説が、如何に知識が大切かが、主張されなさ過ぎます。また、日本史だけを学んだ生徒と、日本史の外に世界史をもきちんと学んだ生徒の違いです。分子を日本史、分母を世界史にした歴史観を身に付けた生徒{※ライフネット生命の創業者で、立命館アジア太平洋大学学長でもある出口治明氏のような‘知’を身に付けた生徒}の方が、断然、世界のエリート学生に対抗もでき、日本史も多面的に概観できる。外国語の勉強でも同様です。英語の外に、もう一つフランス語やドイツ語、中国語を身に付けた外交官、商社マンなどの方がつぶしが効く、さらに、英語のみならず、ラテン語やギリィシア語の古典の教養を備えた英文学者の方が、厚みがでる。よく生徒に言う事ですが、高校の英語の教師は、英語学科出身の人{※TハイスクールのY講師など}には、あまり、知的な生徒は引き寄せられない、魅力を感じられないという風評などもその辺が根拠になっています。
徹底的に、まず知識を頭に叩き込むことなしに、アクティブ・ラーニングなんぞを実施したならば、明治か大正の尋常小学校上がりの丁稚奉公の12歳の生意気小僧を輩出する羽目と相成る。底の浅い屁理屈・言い訳・青臭い“耳学問”、また聞きの受けり知識など、したり顔で語る小生意気な少年・少女を大量生産するのがおちというものです。それでも構わないというなら、それもよしとしましょう。「英語をしゃべりたい、話したい!」と、読み、書き以前に、すぐ主張する生徒は、この戦前の屁理屈小僧と同じメンタルでもあるのです。
知識など覚える必要がないネット社会で、“すぐ検索すれば済む知識の習得など二の次、それを組み合わせたり、問題を剔抉したり、解決法を提起したりする思考能力を鍛えるべき”論が、現在幅を利かせている。この主張こそ、アクティブ・ラーニングの根本原理(ドグマ)である。ここで敢えて言わせてもらえば、慶應大学文学の英語入試問題を例にあげましょう。この2時間を要する長文問題は、紙の英和辞典と和英辞典の持ち込みが可となっているものです。しかし、現実に、試験会場で、「英単語は覚えなくていい」「英単語は弱い」といった語彙力貧弱な受験生、英語暗記消極的生徒が、これぞとばかりに飛びつき、単純な理由で受験する人に限り、落ちる。会場で、しょっちゅう何度も辞書をぺらぺらめくって時間が足りなくなる。それに対して、やはり、そこそこの数の英単語を覚えている受験生が、数回ほど、辞書で確認程度で、済ます、そして、その生徒が合格する。実は、このケースこそ、一見、知識を覚える必要がないかにみえる現代社会{昭和の頃に比べ他人の電話番号を覚えている人が絶滅危惧種になっている事例が典型であろう}において、実用性ではなく、非実用性の世界、即ち、知の領域ではやはり、使えるツールとしての知識が頭の中にすでに入っていなければ、小回りが利かない、臨機応変に、即、対応できないハンディを背負うことになってしまう点を指摘する者があまりに少なすぎるのです。
2020年から表舞台に立つ、4技能による使える英語、アクティブ・ラーニング、プログラミング教育、これら3要素は、本来であれば、高等教育の大学の場で行うのが、理に適っているのです。それを、中等、初等教育に責任転嫁、大学自身が不能であるがゆえに、下の教育課程{中等・初等教育}に、無責任にも、ほっぽり投げ、これが、今般の安倍政権下の文科省主導による教育改革の実体です。
2018年10月15日 21:49