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コラム
9月入学は亡国への一里塚①
9月入学がどうして駄目なのか?
誰も言わないから私が言う!
9月入学が、今般のコロナ禍によって、白熱議論の対象となっているようだが、天邪鬼・へそ曲がり居士の私としては、まず、9月入学など、論外と申しあげておきたい。
そもそも、教育とは、3分の2が文化なのか、それとも3分の2が文明の範疇にいれるものなのか、どちらに軸足を置くべきなのか、それを問うてみたいのである。
まず、グローバル化という国際基準の土俵に引きずり込んで、世界の8割が、9月入学だから、日本人も留学しやすく、海外の優秀な人材も、大学はもちろん企業にも流入しやすくなる。まるで楽天やユニクロの企業の論理で、教育を俎上にあげている。それこそが効率性・合理性といった視点でものごとを考える、いわば、文明に軸足を置いたものである。
まず、早稲田の国際教養学部の話をするとしょう。
この学部、入学して初めてわかることであるらしいのだが、学生に関して、3層構造のカーストがあるらしい。最上部は欧米系からの留学生が占め、中間層が帰国子女が母集団の階層、そして最下層が、純ジャパともいわれる12歳から英語を学び始めて、背伸びして、この学部に入った部族がいるということだ。授業中でも、トランプ大統領をいじったり、批判したりするジョークや皮肉など、留学生や帰国子女がどっと笑う中、この純ジャパの連中は、どうして爆笑しているのかもわからず、顔を引きつらせて、もらい笑いせざるを得ぬ有様とも聞く。日本人が、この日本という国にあって、授業で一番肩身の狭い思いをしている皮肉な光景、果たして、是とすべき授業スタイルと言えるのであろうか。
次に上智大学を例に挙げるとしょう。
この上智大学、早稲田慶應上智と、MARCHの上に受験偏差値ではランクされてはいるが、内実、この偏差値、大学ランクといったもの、それは、留学生と帰国子女によって相当高い下駄をはかせてもらっているというのが、正直なところ、正鵠を射た見方と言える。
純ジャパのみであれば、あれほどの偏差値をはじき出すことは不可能ともいっていい。でも、正直、そうした英語ネイティヴに近づこう、追いつきたいといったモチベーションが多い日本人のソフィエンヌに英語猛勉強へと駆り立ててもいて、それがまた上智の個性でもある。
さて、ここで本題に入るとしょう。グローバルスタンダードと称して、日本人が、海外に留学しやすくなるとか、海外の留学生が日本に来やすくなるなどといった薄っぺらい論理、尾木ママこと教育評論家尾木直樹{※「教育のベルリンの壁を壊す時よ!」と報知新聞で叫んでいた!4月30日付}や東京都知事小池百合子などの9月入学大賛成に日本中のほとんどの、文化というものを、教育の何たるかを存ぜぬ無知蒙昧なる輩が先導している有様である。
では、そもそも、9月入学にしたところで、どれほどの数、割合の高校生や大学生が海外留学するであろうか。近年、日本の学生の留学比率は右肩下がりである、内向きでもある。2020年4月30日付けの日刊スポーツのアンケート{※以下参照}が報じていたが、40歳台から年齢が下がるに従い、9月入学反対意見論者が激増する。
また、9月入学にしたところで、欧米の、アジアの優秀な学生は、単刀直入に申し上げる、1.5流から2流程度のアジア学生、そして、ある意味、変り者・独特のキャラの欧米人しか日本には留学しはしないことは明々白々である。英語が自在に話せるアジア人なら、第一志望は、アメリカの大学、第二志望はイギリス、そして、行けなかったお茶のでがらし族やビールの一番搾りならぬ二番絞りの連中が日本に来るのである。また、欧米人で、わざわざ、日本語を身に着けて来日する若者など少数派であり、理系学生が日本の一流大学で、サイエンス(大切な基礎研究の特許手前の知識のようなもの)を習得して、日本語は会話程度で、帰国するのが関の山である。中国のエリートがわざわざアメリカのハーバードやエール大学に留学し、一旦グーグルやアップルに就職し、ある程度の技術的ノウハウを身につけ、中国本国へ持ち帰り、ハーウェーなどの研究者となる、いわゆる“ウミガメ”族の第二の美味しい国ともなってしまうのである。スパイ天国とも揶揄される日本である、NECや日立においても十二分にあり得ることでもある。大学研究の最高機密レベルの知的財産が骨の髄までしゃぶりつくされ、数十年後、純粋日本人学生が英語でしか高等教育を学べない、中途半端なエンジニアを輩出し、日本の大企業に就職し、2流の外国人が、日本の大企業に就職する事態を誰も予見していない。9月入学の、文明的側面の危険性を指摘するものがいない。
私は、数学者藤原正彦氏とほぼいつも意見を一にするのだが、日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識であってもかまわない論者である。近代の日本の歴史を少し齧ったものならば、グローバルスタンダードなどに合わせれば合わせるほど、日本の国益は損なわれてきた経緯、いわば国際化の負の側面が際立っている点に気づくものである。近年では、世界基準により、非正規社員の激増と格差社会という“新自由主義というビールス”の流入が記憶に新しい。小泉構造改革である。浜口雄幸内閣の金解禁である、昭和初期の不況(感冒)を、金解禁で、世界恐慌という“ビールス”を吸い込み、昭和恐慌(悪性インフル)という重篤の病に日本を陥れたのである。そういえ、浜口内閣の逓信大臣は純一郎の祖父小泉又次郎であった。何か皮肉めいた運命を感じる。グローバル化と大衆には、聞こえがいいが、日本国民はいつもグローバル化の貧乏くじを引かされてきた。大企業では、山一証券、北海道拓殖銀行、そして、東芝やシャープが記憶に新しい。「バカな大将、敵より怖い」という人生上の摂理の証でもある。
9月入学などを断行すれば、憲法改正と同様に、実は実現不可能に近いと思うのだが、馬鹿な日本の高校生・大学生は更に教育システム上{※英語でやる授業が増える!など}馬鹿に、2流の留学生が、日本のキャンパスで大手を振って、日本人の税金で賄われている研究施設の恩恵を大いに受け、日本の基礎研究のおいしいところを“中国のウミガメ族”の如く、留学生に自国へと持って行かれる羽目となることに、誰も警鐘を鳴らさないのである。
「そもそも日本の東大は明治時代9月入学だった」と、いともしたり顔で、令和の「このコロナ禍をモーメンタム(※((笑))小池百合子のカタカナ日本語の真骨頂がでました!)として実現すべきだ」と主張する教育白痴知事が多い中、明治の東大と今の東大では時代背景や東大生の立ち位置やエリート度(青雲の志とノーブレスオブリージュ)が雲泥の差で違うということを指摘する者が少ない。ただ、昔と今を比較して短絡的意見を吐いているにすぎぬのである。
明治時代の東大生には、国を背負ってゆく使命感、また、数人に一人はヨーロパ留学を希望する超優秀な青年であったことを付け加えておく。また、女子の帝大生など存在しなかった時代でもある。必死に、西洋に追いつき追い越せの時代でもあった。それを引き合いに出して、9月入学はおかしくない、不自然ではないという論陣を張る浅薄なる知識人すらいる。
以前、東大が9月入学を模索したが、また、その他一部の大学も追随しようとしたが頓挫した経緯がある。これは、大学の世界ランキングで、東大が36位だの京大が65位など、早慶でさえ100以内にランキングされていない、こうした事情が、9月大学入学モーメンタム(笑){勢い・弾み}となったことは明らかだが、もし、日本の大学のランキングをこうした9月入学という後追い・見たくれグローバルスタンダードに合わせたら、東大京大早慶などの大学は、恐らくランキングは上がるであろうが、内実、早稲田の国際教養学部、上智大学の外国語学部の、“みたくれランキングアップ”の運命と相成るであろう。また、大分県にある立命館アジア太平洋大学に近いものになるかもしれない。バブル時代、ダイエーのカリスマ経営者が、「売り上げ(=大学の世界ランキング)はすべてを癒やす!」と豪語し、進軍ラッパを吹きながら、薄利多売で、結局はダイエー帝国を崩壊へと誘ったのと同じ運命を、9月入学は日本の高等教育にもたらしかねない。はっきり言わせてもらうが、9月入学は、文明国日本の崩壊への一里塚であると。
また、明治の大蔵省の年度の会計が、コメ、いわゆる、農家の収穫を基準に、1月から3月に国家の予算を編成する都合上、学校も4月入学に明治の半ばになったといった経緯を持ち出し、本来は大蔵省の予算編成の都合に合わせて、欧米基準(9月入学)を二の次に、4月入学となった時代背景を挙げていて、9月入学を不自然ではないとする論陣を張る評論家もいる。
これこそ、日本文化そのものの遺伝子を象徴してもいる。日本の原風景でもある、野山を背景にした水田の風景、美しい今では貴重となった棚田の光景、井上陽水の名曲“少年時代”から連想される夏のあの懐かしい光景である。これぞ、日本を象徴するものである。横山大観の富士の日本画を挙げるまでもなく、川合玉堂の、日本古来の自然の風景画という文化を象徴する精神性を根絶やしするに等しいのが9月入学でもある。
ここでは深くは触れないが、天皇家、日本の皇室など、全て、農業、稲作を遺伝子として、日本の伝統を支え、築き上げてもきたのである{※明治以降の慣習ともされるが敢えて踏み込まない}。
4月入学は、最も日本らしい文化的風習・習俗である。教育制度などでは決してない!
全世界では、中国、北朝鮮、アフリカの途上国でさえ文明の尺度、いわば、政治・経済の“度量衡”は西暦である。しかし、中国は、新正月、春節と称し、1月1日から3日ではない。文化は別物として存在している所以である。日本人も同様なのである。よく教え子に聞くのだが、「クリスマスまでの一週間と正月までの一週間では、どっちの方が心が和む?安らぐ?好き?」と。すると、「正月までの師走の最後の数日がいい!」と答えてくる生徒が大半である。これが、日刊スポーツのアンケートの10代から30代の若者が反旗を翻した無意識なる拒否反応であり、彼らの遺伝子が疼いた拒絶反応ともいっていいものである。
正月とお盆、そして何より、日本における4月入学という制度は、稲作文化を背景とした日本人の生活リズムに依拠した風俗・習慣ともなっているものなのである。制度ではなく、文化であるとはっき言っておこう。
9月入学の国々では、日本ほど四季の巡り合う美意識を持ち合わせてはいないことだろう。新入生・新社会人が、桜を背に、校門をくぐり、先輩上司と上野恩賜公園で酒を飲みかわす、これぞ文化である。桜(さくら)が散る頃、そして五月(さつき)、五月雨(さみだれ)が来る、そして早乙女(さおとめ)が水田に稲を植え付ける。
ある説だそうだが、さというそのさという意味は、本来は神であるそうだ。
さが住まうクラ(仮の住い)、それが、さくらであり、さがおられる季節、それがさつきであり、さが暴れる行為、それがさみだれである。田植えの季節、さにお仕えする女、それがさおとめでもあるそうだ。新暦の4月、5月は、さくらから稲作へと連綿と続いてゆく、その年度の新たなる、日本文化の、象徴的、特別な季節なのである。
4月入学、4月新年度、これは、受験生が寒い1月から2月末まで、心寒い勉学と、ある意味、シンクロする、街並みと心象風景がマッチする情緒というものが日本人の内面にはある。これが、真夏の暑い季節、受験生以外、Tシャツ姿の先輩・後輩が、海山にレジャーにあけくれている光景を目にしたら、受験鬱患者が倍増、社会問題化しかねないと考えるのは私の杞憂であろうか。それは、受験期の12月から2月にかけて、受験生以外の両親や兄弟が、旅行やレジャーなどに明け暮れていたら、心の沈みようの程度といったら尋常ではないのと同義である。9月入学は、決して精神衛生上よくないのである。現代の若者は、本能的に、そうしたことを嫌悪しているのである。4月入学が、教育と文化の両面で、遺伝子として定着した証でもある。
また、物理的、科学的根拠から9月入学を否定したい。
いまや、地球温暖化で、日本のみならず、7月から8月にかけては猛暑である。それだけではない、異常気象で、記憶に新しい台風19号など、50年、100年に一度の天災が数年ごとに起こりかねない。こうした事態ともなれば、冬の受験シーズンに大雪で、電車やバスなどの交通網が麻痺する程度の事態のレベル問題ではなくなる。
また、これも、弊塾の生徒に質問するのだが、「夏にクーラーがない生活と、冬に暖房がない生活だと、どちらが嫌ですか?耐えられないですか?」と、すると、彼らは一応に、ほとんどが「クーラーがない生活のほうが嫌だ!」と応じるのである。当たり前である。真冬寒い中、今やヒートテックを着て、手袋をはめ、ダウンジャケットで、寒い室内、かえって頭が冴えて、勉強がはかどるが、真夏の猛暑の室内、もしクーラーがなければ、頭がぼ~として、勉強など手につかない。また、真冬の寒い部屋でも、頭から布団毛布をかぶり眠ることは可能でも、真夏の超暑い部屋では、クーラーがなければ、寝付けない。そして、夏は睡眠不足となり、食欲も進まず、冷たい麺類ばかりで体力を落とし、健康まで害する羽目となるが、真冬は、軽い風邪かちょっとしたインフル程度である。風邪などは予防如何で何とかなるが、暑さは予防のしようがない。ここにおいても、今議論されている、勉強のオンラインやアイパットの有無による教育上のデジタルディバイドと同様に、エアコンのあるなしの学習環境による、クーラーディバイドなる不平等が生じかねない。余談ながら、ヒートテックはあるが、クールテックなる衣料品がないのが致命的である。
東京オリンピックが、猛暑の夏ではなく前回の1964年同様秋オリンピックにするのが、本来の理想であり、アスリートファーストの視点からは筋でもある。しかし、アメリカのIOCへの放映権料などが絡み、アメリカファーストの都合で東京オリンピックが夏開催となった。これと同様のことが、日本の9月入学にも当てはまる。本来、4月こそ、文化的、習慣的、様々な見地から、日本では4月が都合がいいのである。しかし、アメリカンスタンダードに合わせようとする愚挙、これに、誰も異議を唱えようとはしないマスコミや知識人がなんと多いことだろう。呆れてものも言えない!
比喩として少々飛躍するが、フランスのパリには一切ソフトドリンク、特に缶コーヒーなどの自動販売機は置かれていない。法律で禁じられているからだ。フランスのカフェの文化を守るためである。本来なら、消費者ファーストで、便利な自販機を設置し、手ごろで便利な缶コーヒーを街角に置くのがグローバルスタンダードというものだろう。しかし、それに反しているのだ。文明の象徴としての缶コーヒーを否定し、文化の象徴でもあるカフェという店舗を保護しているのである。教育にも、こうした目線が必要であるが、合理主義、効率主義、経済第一主義、こうしたイデオロギーに染まった政治家・教育者・知識人がなんと多いことであろうか!ある本の題名を彼らに送ろう、「便利は人を不幸にする」という逆説を。逆説を真理として認識する、心にわきまえているか否かが、真の教養人であるかの試金石でもある。
何度も申しあげよう。今般の9月入学は、昨年中止となった英語4技能を試す民間試験以上に、国益を損なうものであると。恐らく、頓挫するのは明らかである。今回、この9月入学に賛同を示した日本中の知事、教育評論家、知識人の名前を忘れずにおくとしよう。
追加事項
2020年4月30日(金)日刊スポーツによるアンケート調査の数字である。
1.10代 反対115人 賛成30人 148人中
2.20代 反対61人 賛成20人 83人中
3.30代 反対88人 賛成31人 126人中
4.40代 反対141人 賛成110人 261人中
5.50代 反対78人 賛成102人 188人中
6.60代 反対14人 賛成54人 72人中
7.70代 反対10人 賛成28人 40人中
見出しのタイトル
ニッカン緊急アンケート
「9月入学制」10代以下反対77%
以上の分布だと、少年少女から青年にかけて、9月入学に関して保守的であるのは、私には不思議でもなんでもない。また、バブル体験の50代以上が9月入学賛成というのは、ある意味当然かもしれない。
2020年5月11日 17:37