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学ぶ意志ありきの"性善説"に立ったオンライン教育論

 人は学ぶという意志・向上心があるとう教育上の“性善説”ありきでことが進んでいるようだ。今般のオンライン教育推進の風潮が過剰になっていることに違和感を感じる。このコロナ禍を“絶好の機会”にと、デジタル・ネット系シンパの学者や教育評論家が、したり顔で「教育における遠隔教育が、これから絶対に必要だ!」とわめきちらしている。コロナ禍以前も、すでに私学公立間では当然、私学間においても、公立間においてもすでに凸凹のデジタル格差が存在していた。遠隔授業は、英米の20年は遅れを取っているそうである。今から、けちな政府に、莫大な国家予算で英米並みにオンライン授業のインフラを整えることを求めるは、今から日本が、GAGA並みのグローバル企業を生み出す国家政策に踏み出すに等しい愚挙とさえ思う。コロナ禍で、教育というものの文化的背景を考慮した理性的判断ができぬようだ。
 
 そもそも、弁護士を目指す社会人は、猛烈なる動機で、伊藤塾{※弁護士予備校}のオンライン授業をうけている。
 また、学費の一部を、アルバイトなどで賄い、必死で大学を卒業しようとしている学生における、オンライン授業の態度・姿勢といったものがある。これも社会人のそれには及びもしないが、微熱ながら、あたたかい動機というものが感じられる。
 そして、準義務教育ともなっている高校生、そして、義務教育である中学生・小学生におけるオンライン授業の学びの温度差(※熱いから冷たいまで)というものが存在している現実を指摘しておきたい。このタイプは、学費の何たるか、どれほどありがたい中等教育の機関に通わせてもらっているか、その恩恵に無感覚な子供たちでもある。
 
 弊塾では、生徒にオンライン授業を、自宅でどう対処しているのか、質問してみる、すると、2倍速、早送り、適当に観ていることが判明する。宿題画像を“学習”したことにして、終了ボタンをクリックしている者が意外と多い。断っておくが、これは、弊塾の生徒をもとにしての意見であることを断っておく。
 紙の教材を送られてきても、まるで夏休みの宿題プリントのように、頭は、3割程度稼働するのみで、深く考えることもなく、ただ“事務処理学習”が如きに無機質な学習行為ともなっているのが実状である。これは、今までやってきた内容の復習の範疇のものである。
 それに対して、予習してくる内容の課題すら出している私立の学校もある。こんな予習タイプの自宅学習など、少々英語や数学がおできになり、教える時間、暇がある親御さんでなければ対処のしょうがない。
 以上が、コロナ休校での家庭学習というものの影の面・死角でもある。
 
 では、これからポストコロナの世の中で、推進されかねない、オンライン教育の盲点とやらを申し上げる。
 雑駁、大まかに単純化して、区分すると、以下のようなタイプの学びの生徒像が浮かび上がってくる。
 
 ①5分の1:学校の授業で十分理解できる、しかも、自宅学習がきちんとできる
 ②5分の1:学校の授業で十分理解できる、しかし、自宅学習が意志的にできない
 ③5分の1:学校の授業で教室内の拘束があるため、しぶしぶ50分授業に出ているが、そこそこ理解がで          きている、しかし、自宅学習する意思など当然ない
 ④5分の1:学校の授業では理解不十分で、しかも、自宅学習しても理解不十分、当然やる気もなし
 ⑤5分の1:学校の授業では、やる気もなし、当然授業は理解不能、しかも、自宅学習など何するものぞ                     と全くしない
 
 こうした、学校内の現状を考慮の上で、オンライン教育論を展開しなければならない。全てが全て、生徒全員にやる気があるといった、学びたいといった学びの<性善説>に立って、それを前提にしての<オンライン教育是認論>が現在展開されている模様である。
 
 一般の、ネット、ユーチューブなどで活躍されているオンライン教育推進派(IT系会社に関与する知識人=夏野剛・堀江貴文など)が、論拠とする点は、自身の将来の目的・目標がしっかりあり、学校の部活や課外活動などウザく思う超個性派少年少女で成功しているデジタルオンライン授業を成功例・将来のモデルケースのように、牽強付会的にアピールしている観点なのである。“デジタル教育翼賛会”の如くに思えて仕方がないのである。
 カドカワが主催するN高校の事例を挙げるまでもなく、紀平梨花のようなアスリートが通うタイプ、集団生活になじめないタイプ、デジタルネイティブタイプ、好きなことのみやりたい(eスポーツのゲーマーを目指す)タイプなどなど個性豊かな少年少女を対象としたオンライン教育の手法・利点、この<陽の側面>のみを強調して、これこそが、コロナ禍にみまわれている現代の教育状況を克服する、突破する、将来の教育ツールとしてベストであるかの如く、悠然とアピールされている点に誰も反論できない。コロナの恐怖から、<対面授業=悪>論が吹き荒れているであるから、アナログ派は劣勢に立たされてもいる。
 
 こうした種族の10代の若者は、自身の夢・目標・仕事など、ある程度はっきりしていて、ある意味、勉学は二の次、高卒の資格さえ得られればそれでよしの人々である。部活も教室内の交友関係も二の次である。それに対して、ごく普通の7割から8割の生徒は、将来像などはっきりしてはいない。教室に足を踏み入れて、何とかしぶしぶ出席し、赤点回避で、卒業できれば、それでよし。また、マシな部類ではあるが、定期テストでそこそこの点数をゲットし、指定校推薦やAO入試で、そこそこ満足のゆく大学に滑り込めれば御の字なのである。
 このような思春期の、学びの心が揺れ動く少年たちに、そもそも全てが全てオンライン教育を施したところで、どれだけの効果があると言えるのか?まず問題提起してみたい。
 すべての子どもに、アイパット一台といった理想的、一種学びの平等を絶対是とする方針なんぞは、イージスアショア2基を山口県と秋田県に配備するのと同じくらい税金の無駄であると言っておこう。教育の学ぶ機会の平等を声高に叫ぶ教育共産主義者と北朝鮮ミサイルの恐怖を煽り、“国民の生命第一主義を唱え、べらぼうな税金をトランプ大統領にプレゼントする安倍首相の行為”を支持する似非愛国主義者の反論は覚悟で言っているまでである。
 
 仮りにである。仮想の世界のことである。何度もお断りしよう。もし、仮にである、日本全国が、小学校から高校まで、完全なる、欧米並みの日本で一番進んでいる私立校のオンラインシステムが、一瞬にして日本中津々浦々まで実現したとしよう。
 
 上記の①のみの生徒しか、オンライン授業は効果はなし、また、N高校に登録している資質の生徒にしか、デジタル授業なるものは効果なしと、はっきり断言しておこう。
 ②のタイプは、学校で理解できた内容を、自宅で復習なり、反復演習なりが自律心の欠如か、親の規律の緩さか、自宅での誘惑(ゲームやユーチューブ)が多いのか、勉強できない種族である。こうした少年たちは、塾・予備校で放課後学ばざるを得ない環境に慣れきっているのである。ここにこそ、世にいう<塾歴社会>の一面が垣間見られる。そこでであるが、こうした規律・自律といった“学びのコア”を有しない生徒は、また、塾であれ、予備校であれ、外発的・強制的空間ともいっていい教室内でなければ、学びのスイッチが入らないのである。よって、②のタイプは、オンラン教育もほとんど効果なしと言っておこう。
 ③のタイプ②のタイプに準ずる。アナログ的<教室という物理的・肉体的拘束>というものが、最低限、彼らの学びの意欲を担保してくれているのである。そして、授業内で、何とか教師の説明が理解もできている。しかし、彼らは、放課後の自宅や塾という場がなければ、当然のごとく、<リードを外された躾けのなっていないペットの犬>のように、主人(教師や親)が苦労して捕まえにゆく羽目となる。そんな子供たちでもある。オンライン授業という手法は、自身を律する学びの心的態度を有しない部族には効果薄とだけは言っておこう。この点、アマゾンの未開族にパソコンを与えるに等しい政策であるとは誰も口にはしない。世の大バッシングを受けかねないからでもある。ビートたけしの「赤信号、みんなで渡れば怖くない(車の方で止まってくれる)!」ではないが、「コロナ禍、理想論(人命第一=リモート教育)を唱えれば怖くない(批難されない)!」とだけは言っておこう。
 ④と⑤のタイプに関しては、そもそも論ではないが、オンライン教育やアイパットでの授業、デジタルツールの教え方では、砂漠で、稲を育てるに等しいとだけは言っておこう。④と⑤の生徒に、リモート授業で勉強を教えるは、“木に縁りて魚を求む”が如しと断言しておこう。それほど、無駄な行為である。しかし、教育とは、文化的側面からは、無駄を覚悟でしなくてはならないのは、国家防衛における軍隊(自衛隊)と同じ要件はあることは弁解しておく。ここが、“教育環境整備共産主義者”と僅かながら意見の同意をみる点である。弁解ながら申しあげておく。
 実は、④や⑤のタイプの生徒のためにこそ、税金で、ハイテク機器のアイパットなどではなく、生身の教師の待遇改善、環境整備、人員の増加、こうした要件を優先させねばならないのである。ゆとりのある(金銭的にも時間的にも)教師は、質やスキルも向上する。④や⑤のタイプだけでなく、②や③のタイプの生徒たちも、優秀な教師が、多数いればいるほど、①のタイプのゾーンに格上げ可能ともなる。
 教育における、デジタル機器信仰は、学校(初等・中等教育)というトポス以外が、今やすべてIT社会(※スマホが常識=アマゾン帝国)となり、ビジネスの論理(※効率性最優先)で、学校を裁断している。“半分軸足を文化に置いた教育”というものを、ないがしろにしている節が大いにある。
 アイパットの導入やオンライン教育の推進は、ステルス戦闘機の導入やイージスアショアの設置とダブって見えてしまうのは、私の思考的幻覚症状であろうか?
 ハイテク教育機器より、生身の教師の待遇改善こそが優先されるべきは、莫大な防衛費をイージスアショアにつぎ込むより、自衛官の待遇改善に向けたほうが結局は、長い目で見たとき、自国防衛にとっても国益ともなるのである。これは私の素人的個人見解にすぎない。自衛隊の憲法記載という“花”以前に、まず自衛隊員の“実”を優先させるべきである。
 今の自民党の政治家は、軍事安保とは、教育安保とはお分かりになっているのであろうか?コロナ禍後、数十年、今度は、干ばつ、異常気象などで、必ずや、地球レベルの食糧危機が襲ってくることであろう。その時、外国が、マスクを、消毒液を、ワクチンを、売ってくれないというレベルではなくなる。食糧安保が浮上する。日本国の食糧自給率を考えた時、近い将来の地球規模でも食糧難が到来したとき、うすら寒い日本の未来像が見えてきてならない。
 軍事安保にしろ、食糧安保にしろ、教育安保にしろ、本末転倒にして、深慮なき政策ばかりが目に付く現在の日本の政治家である。

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