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私のSNS論~③社会編~

 まず、初等・中等教育における、学びのツールとしての重要度の順位を挙げることにします。

 

 1位:読書=アナログの皇帝

 2位:紙の教科書=アナログの王

 3位:パソコン・タブレット=デジタルの君主

 4位:スマホ=デジタルの王

 5位:ゲーム(※これは本来学習の範疇には入れません)=学習におけるデジタルのテロリスト

 

 まず言えるのは、日々紙の本による読書の習慣がある少年・少女は、パソコンだろうが、スマホだろうと、さらにゲームをしようと、デジタルを律する資質が養われているため、まず、放っておいても、デジタルの負の影響に染まる心配はありません。

 では、読書を全くしない生徒であれば、タブレット端末やスマホ学習は極力自制させなければなりません。親御さんが、紙のテキスト、紙の辞書などを奨励して学習指導することが肝要となります。

 月に1冊もを読まない。また、紙の辞書より電子辞書、更にスマホで辞書を代用し、スマホによる勉強をしている生徒は、イェローカードを我が子に出してください。

 最悪なのは、ゲームの合間に、スマホ学習などをしている中高生です。これは、レッドカードです。我が子を紙の媒体へと誘導しなければなりません。実は、この点に気づいていない親御さんが非常に多いものです。それは、「2020年から小学校などでプログラミング教育が必修化される時代の波に乗り遅れては大変だ」と早合点し、自宅で、ゲームにしろ、スマホにしろ、パソコンにしろ、プログラミングという科目の予行演習・準備体操くらいに錯覚してもいるからです。これは、早期英語教育教に洗脳されているご父兄と同じ幻想病理というものです。

 哲学者ショウペンハウアーは、「音楽は、全ての芸術の王者である」といった意味のことを述べています。この俚諺に即して言わせてもらえば、「紙の教育ツールは、デジタル教育というツール達を束ねる王である。紙というアナログツール達を支配する皇帝こそ、読書である」と。

 なぜこんな事を言うかといえば、人間と社会(文明・文化)との関係をあまりに深く考えていない御仁が多いからです。

 まず、進歩と進化というキーワードから語ってみたいと思います。

 人間は、そもそも進化などしない。また、進歩もしない。しているのは、社会の方です。人間そのものが、もし、進歩していると思っているとすれば、それは、社会の奴隷になっているのに、自身が優れていると勘違い、錯覚している種族です。「虎(コンピュータ)の威を借りた狐(人間)」如きものであります。シェークスピアや紫式部以上の文学作品は、近現代人は書けてはいない、また、それに共感する心は今もって不変です。進化も進歩もしていない証左です。文明の進化・進歩の速度は‘長足’のものがあります。文化のそれは、“短足”のものとも言えましょう。しかし、人間そのものは、進化も進歩もしてはいないのです。進化・進歩するという、一種うぬぼれにも似た共同幻想の中に、今、大衆は置かれているという事実が大切なのです。特に、一部の天才サイエンティストなどの資質から自己をだぶらせ、逆照射し、デジタルシンドロームに愚昧なる大衆は陥っていることが自覚できてはいないのです。AIに将来、我々人間の仕事が奪われるという強迫観念にとらわれている人々に限り、焦燥感にかられ、理性を忘れ、AIを御するデジタルとして人間に変貌しようとする誤った判断をしているのです。人間は気質的にも、資質的にも、デジタル化は永遠には、できない、それは、人間と同義のアナログという性質そのものが、進歩も進化もできないからです。できているとすれば、平安時代、江戸時代、明治から昭和時代の日本語という言語の変化を、進化・進歩と認識しているか否かの程度でありましょう。「人間とは言語である。また、言語こそ人間である」の翻案を述べているまでです。極論を言いましょう。デジタルは男性としての父親、アナログは女性として母親、両性具有などできない運命に人間は位置しているということを強く認識すべきなのです。

 AIは、社会を進歩させてくれるでしょうが、進化はさせてはくれないものなのです。ダイヤル式の黒電話をプシュホン式子機装備の置き電話に進歩させてくれるでしょう、また、PHSから初期ガラケーへ、更に、Iモード内臓の後期ガラケーへと進歩させてもくれるでしょう。しかし、AIは、置き電話を携帯電話へ、ガラケーをさらにスマートフォンへと進化させる能力は持ってはいないのです。AIには、アナログのコアともなる想像力も創造力もないからです。それがあるAIが登場すれば、それは、数百年後か、千年後かもしれません。そうです、それぞれの文明の利器の進化の発想・研究はアナログとしての人間にしかできない領域でもあるのです。

 スマートフォンを開発したスティーブ・ジョブスは、ひとえに天才としての人間でありました。彼を称して、サイエンスとリベラルアーツの十字路に立っていた人間だといった表現があります。そうです。彼の内面には、デジタルで進歩してきたサイエンスという王たちを支配するアナログという皇帝たち(リベラルアーツ)がいたのです。この点を見誤る親御さんが非常に多いものです。彼は、晩年、禅(マインドフルネス)にはまっていたと言います。言わずもがなですが、禅とは、デジタルもアナログも超越した流儀です。


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