カテゴリ

HOME > コラム > BasicとFundamentalについて

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

BasicとFundamentalについて

 このコラムで以前、経験と体験との違いについて、数回にわたって語ったことがありました{2023年1月23日}。この両者、英語にするとexperienceという語しか、該当する言葉はありません。しかし、思想家森有正が、この違いを定義し、経験というものを思想の域にまで高めた意義について語ったものでした。この例を見るまでもなく、漢字文化圏、即ち、日本語が、この範疇の語義で優ってもいる例でありましょう。言語の優劣というものは、一般的には、ありませんが、こうした言葉の差異というものから派生する語義というものが、その民族や国民を規定するものだとも言えましょう。近代的な哲学や思想といったものが、欧米言語(英仏独など)でしか語れない一つの理由でもありましょうか。

 経験と体験のみならず、世界史と日本史を高校生に教えている仕事柄、英語には、古代、中世、近代といった、つまりancient  medieval, modernの3語しか通常、ありませんが、特に、日本語だと、この第三段階が、近世、近代、現代というように、江戸時代の1600年代から、三層構造として記述されます。ここにも、日本語の漢字を取り入れた優位性というものがうかがわれます。

 では、その逆はどうでありましょうか?

 学生から社会人への問いかけです。日本語の自由という言葉が、明治時代以降、自由民権運動を皮切りに、日本人の脳裏に、一つの市民社会の権利として、定着した感がありますが、その原義ともなる、liberty と freedomとの違い、その峻別を意識している高校生、大学生、社会人がどれほどいましょうか?生意気ですが、いれば勉強家です(笑)。この違いは、英米人の大学卒のインテリ人なら、自覚はしてもいましょうが、大方は、大衆庶民層のアメリカ人(トランプ支持層の労働者)が使用の際、区別して用いている人は意外と少ないと言われてもいます。これは、上から与えられた民主主義と下から勝ち取った民主主義との違いから、欧米のdemocracyと日本のdemocracyとの違いとも通底していて、この自由という概念も、日本人は、曖昧に、生温く、表層的に用いてもいるようです。色々な理由もありますが、日本人の投票率の低さ、コロナ禍の他国には見られない国民の自主規制的態度、今般のイスラエルのガザ侵攻へのアメリカの大学生の抗議運動など、すべて、この自由という語義への認識の深浅が、行動の違いに出てきていると思われます。特に、政治学における、リベラルという意味、ニュアンスが、カタカナ表記(リベラル)の“自由”というものが、厄介な理由です。一般的に勘違いされがちで、日本人には不明でもある根拠です。生徒に語る例ですが、アメリカの自由の女神像を、どうして、the statue of freedomではなくthe statue of libertyと言うのか、そこに象徴的に表れてもいます。

 では、小学生から高校生にかけて、それも受験科目、また、学習過程における基礎という概念に関してであります。この基礎という、月並みな言葉も、日本国民全体の共通認識の自由と同類の意識しかもっていないことでありましょう。では、この基礎という言葉、まあ、二つに分けると、一般的に、basic  fundamentalというものになるというのは、前回のコラムの最後で言及した次第です。
 まず、「基礎的な」という形容詞から、basicですが、この形容詞、基本、つまり、名詞はbaseという土台、基盤という、ものごとの第一段階を示す意味です。そこには、空間的位置づけ、意義しかありません。一方、同じ「基礎的な」という形容詞、fundamentalですが、これは、fundという基金、資本という意味が語源となっています。そこには、時間的位置づけ、建設的意味合いが内包されています。ですから、未来志向的ニュアンスを含んでいるということでもあります。これから派生したfoundationも建設、設立という語義があり、そこから、基礎、土台といった意味合いがあとから生まれたものなのです。

 これは、浅学な私の推測ではありますが、basicには、どこかしら、easy やfirstといった、stepやstageであって、phaseの意味合いは感じられません。水平的・階層的コノテーションを含んでいます。しかし、fundamentalには、未来志向的、建設的、成長的、しかも、vitalやessentialのようなコノテーションが強いのです。垂直軸の意味合いが大いにあるということでもあります。

 この、fundamentalに、その精神に向き合うには、学びの意志というものが、必要となります。でも、basicには、それは、不要です。エレベーター的、エスカレーター的と申しましょうか。小学生の段階で、中学受験する生徒は、fundamentalは必須です。公立中学へ進む者は、basicで用足ります。しかし、中高一貫校へ進んだ者は、このfundamentalの意義を、無意識に自覚してもいるのです。公立中学へ進んだ者は、中学生の段階で、基礎をbasicからfundamentalに面舵いっぱい、ギアチェンジした者は、公立ナンバー校(湘南高校・浦和高校・千葉高校など)へ合格できるのです。

 喩えは少々飛躍もしますが、basicの基礎は、二級建築士のスキル、fundamentalの基礎は、一級建築士のそれとも言えましょう。算数のそれと、数学のそれとも言えましょうか。理系的気質の子供、少年が一生涯、算数をやっていても意味がありません。応用がないということでもあるからです。そうです、応用の効く効かない、その分岐点に、basic とfundamentalの違いが存するということでもあるということです。お遊びの基礎的ルール、それは外発的なお約束ごとであります。それに対して、仕事上の基本的ルール、それは、内発的な律でなくてなりません。ここにも、basicと fundamentalというものの大きな開きがあるのです。飲食店におけるアルバイト学生の、名目的“店長”と、正社員の店長との責任感の違いにも表れてもくるものです。私の好きな言葉「確かなものは覚え込んだものにはない。強いられたものにある。」(小林秀雄)にも、こうした真実が垣垣間見えるやもしれません。

 自分に妥協してしまう努力、それにbasicは内包されています。一方、自分に妥協しない努力、難しいを苦としない、むしろ、楽しいと感じる自覚的精神に裏打ちされた、基礎ともいっていいもの、その規矩、それこそfundamentalともいえる概念です。これは、恐らく、MARCHレベルの大学にぎりぎり合格した高校生と東大京大レベルの大学にぎりぎり合格した高校生の、努力といったものに、basicか fundamentalかの違いの開き、努力の過程の質が如実に現れるとも言いえる点です。では、この基礎(basic fundamental)というものについて、次回、“<基礎>の哲学”と題して、語ってみたいと思います。


< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

このページのトップへ