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私のSNS論~①生活編~

 NHKの尾木ママこと尾木直樹氏が進行役を務める番組、ウワサの保護者会の「子供のSNSが心配」(2019年3月9日土曜日)の回を見て改めて思ったことですが、自撮り中毒、多くの人と知り合いになりたい願望、その場の感情を呟きたい衝動、インスタ映え(今の自分はこんなに幸せなの、今の自分はこんなに綺麗なのといった目立う精神)、こうした時代の風潮に十代の初めから染まっている青少年たちの肖像がくっきりとして、さらに、その親たちの世代もネット社会の異常さに鈍感になってきているのか、SNSというツールへの節度やマナーといった当たりさわりのない、口当たりのいい発言で、現状に妥協、いや、我が子のITツール中毒症に、もうどうすることもできない実情で、平成末期族(デジタルがあればアナログなんてなくてもいい族)に取り込まれている観が否めない印象をうけました。
先日も、公立の小中学校でのスマホの持ち込みを文科省が容認する方針を出しましたが、大方の親御さんは、地震や災害の際、また、何らかの事故の際、我が子と連絡を取るうえで必要だといった意見を盾に賛同している方が多くいました。それは、私流に言えわせてもらえば、日ごろの教育・躾・親子の非常時の取り決めなど、前もって確定しておきさえすればいいだけの話しです。この小中の教室へのスマホの持ち込みがどれほどそうした非常時のプラス面を考慮したとしても、マイナス面が多大にあることを認識していない親御さんが非常に多いと言わざるをえません。SNSという、ある意味、ゲームにも近い中毒症状をもたらす文明のツールは、家族内でのルールや節制などを決めたとしてもほとんど意味はないというのが、私の本音でもあります。
 現代日本における、最も最先端をゆく思想家(哲学者)二人の現代のSNS社会への警鐘を鳴らす言葉です。
 
 「インターネットが人間を賢くするというのは幻想だと、人々は気づきつつある」(仲正正樹)~神奈川新聞2019・3・31~
 
 「日常にまとわりつく濃密なインターネット社会で、人々は常に他人の目を気にせざるを得ず‘過剰な関係性’を強いられる。‘他者への配慮’が脅迫観念のようになればかえって他者への対応を形骸化させる」として自著の題名“『動きすぎてはいけない』”(千葉雅也)と蒙昧なる大衆をたしなめてもいます。~神奈川新聞2019・1・6~
 
 表面だけの友人をいかに多く作り、根っ子のない自我を育むという実態を生じさせるSNS社会では、今こそ、福沢諭吉の『痩せ我慢の説』ならぬ、“ネオ痩せ我慢の説“を唱える学者が必要になってきているのです。この“ネオ痩せ我慢の説”とは、曲解して敢えて言わせてもらえば、へそ曲がり・天邪鬼、こうしたキーワードがコンセプトと言ってもいいかもしれません。こうしたプリンシプルこそが、数人、いや一人でいい、真の友人を作り、しっかりした根をもつ自我を涵養することができるのです。極論で、少々論理の飛躍があることを覚悟でいいます。近年、江戸時代の評価が高まっているのですが、サスティナブル社会の先鞭でもあり、芸術や文化が花開き、明治時代に花開く商人道・武士道などといった種を蒔いた、そしてそれが百花繚乱として花開いたのもこの鎖国時代なのです。そうです、世の親御さん、学生さんに薦めたいのは、情報の渦・津波から、アナログとしての人間を守る“私の鎖国”の流儀なのです。
今10代の若者、そして、3~40代の親御さん、彼らは、十数年後、スマホ内の多くの写真、また、情報が断捨離をせざるおえない無駄な情報・データであることに気づくはずなのです。さらに、スマホにある情報としての友人、また、SNSで知り合った自慢の知人(友人)達が、どれほど真の友でないかに気づくものです。「お母さん、スマホがないと友人の輪からのけ者にされてしまうの」「お父さん、スマホがないと、友達と何かと連絡がとれないんだよ」「みんなラインをやっているのに、私だけよ、ガラケーの生徒は」こうした大義を掲げて、親にスマホをせびる子供が多いと聞きます。これを説き伏せられないのは、親力がない、まあ、そうした時代に、一歩脇に逸れて涼やかに概観する目線の欠如した親の存在が原因だと思います。イワシ化(小田島隆氏の弁)した自我であることに気づいていない部族です。
 世の有名人の中で次のような発言をしている人々が多いことは、新聞や雑誌、そしてテレビなどで知った方は多いかと思います。
 
 
 「親友と呼べる人は、せいぜい5人もいないんじゃないかな?いや、1人か2人かも」(某有名お笑い芸人)
 
 「もう40代になると、新しい機種のスマホとか、SNSのチェックなんかにつきあってゆくのにもう疲れちゃって、ツイッターなんかもう、やらないし、見ないようにしているの、SNSからできるだけ遠ざかるようにしているの」(某有名女性タレント)
 
 浅井リョウの直木賞作品「何者」なども、大学生の友人達が、それぞれ親友などではない実態があらわになってゆくプロセスを通奏低音に書かれています。彼らは、その後、社会人ともなると、世知辛い社会、即ち、不合理な会社の空気(見えないルール)や理不尽な上司や同僚との人間関係などで、30歳を過ぎる頃、自身の自我の表層的目線が外部から内部へと向けられ、学生時代までのヴァーチャルな社会・人間関係といったものに気づかされるのです。ですから、現代では、驚くほど“孤独”といった言葉のついた本がべらぼうな種類出版されてもいるのです。以前NHKのクローズアップ現代という番組でも特集されていましたが、20代前半の若者を捉えている心的病、“つながり孤独”というものがスマホの影の面を浮き彫りにしていました。「孤独の力」「孤独のチカラ」「孤独のすすめ」「極上の孤独」また「家族という病」などといった新書が爆発的に売れ、イギリスでは、孤独省なる機関まで設置されました。こうした本を購入する人々は、おそらく30代後半以上の世代でありましょう。まるで、明治維新後、江戸の慣習や習慣から脱しきれず悩む武士たちの姿にダブって見えてきます。着物から背広へと庶民が切り替わる中、福沢諭吉は、学問のすすめならぬ、背広のすすめをも教え子に推奨していたといいます。これが個人レベルの脱亜(文明)欧(文明)です。精神までは、脱亜(文化)してはいません。私流に言わせてもらえば、精神(Mind)はデジタル、しかし、心(Heat)はアナログといったところでしょうか。
 私が生徒によく言うことですが、「今日、図書館で一緒に勉強しよう?」と求められたら、「ごめん、今日、用事があって駄目なの!」と嘘を敢えてつき、別の図書館か、スタバあたりで一人で勉強しなさいと諭すのです。友達とつるんで勉強する行為は、ある意味集中力をそがれたり、また、自分ペースになってきたマックスの精神状態に「ちょっと、休憩しよう?」と水を差されて自分の濃密な時間が邪魔されたりするのがおちです。ですから、勉強とは、一個人の孤独の時間でこそ効果があるものです。スマホを勉強机の上に置いて勉強することは、こうした行為と全く同じでもあります。次の言葉は、朝日新聞の一面のコラム‘折々のことば’(鷲田清一)に記載されていたものです。
 
 
 選んだ孤独はよい孤独   フランスの言い習わし
 
 人々から見捨てられていると感じることと、世評を気にせず自己のうちに深く沈潜することとは異なる。ロンリネス(ひとりぼっちの寂しさ)とソリチュード(孤独)とは全く別のものである。町なかで人々と一緒暮らしながら、ひっそりとした一人の時間を大事にする生き方、つまり、「市隠」に、評論家・川本三郎はひかれる。地方紙に寄せた随想「市隠への憧れ」から。 2016・8・8より
 
 ついでに、哲学者ショウーペンハウアーの言葉です。
 
 「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間になってしまう。なぜなら、孤独でいるときのみ、人間は自由になれるのだから」
 
時代がGAFAに代表さるように、また電車内での“ほとんどの乗客がスマホを見つめているといった異様な光景が、デジタル社会の“廃人”を大量生産していることを証明済みです。最近、内田樹氏による『街場の平成論~どうしてこんな時代になったのか?~』(晶文社)という本が出されましたが、こうした社会・時代の負の部分を剔抉しています。
 親たちは、教育すべきです。「便利なものほど、見えない危険性をはらむものはない」と。火薬しかりです。自動車しかりです。原発しかりです。スマホしかりです。これは、フランスの思想家ポール・ヴィリリオのものです。
 
 「道具の発明は、事故の発明である」

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