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WBC(ワールドベースボールクラッシック)随想①

「確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある」(小林秀雄)

「多摩川グランドの1000球の練習より、日本シリーズの1球のゴロの方が、どれほど自分を成長させてくれたか!」(原辰徳)


 この言葉は、まさしく、今回のワールドベースボールクラッシックの修羅場が、日本の若手プロ野球選手に該当する。シャンペンかけの優勝パーティに参加できなかった20歳の高橋宏斗(中日)以下、20代の若手ピッチャーがどうあがいても、自身の技術の領域ではどうにもできないメンタル面の経験である。ペナントレースの100イニングより、メキシコ戦の準決勝、そして、アメリカ戦の決勝の1イニングがどれほど彼らを成長させたか計り知れない。なぜならば、自身が100%の実力を出しても、打たれてしまう超メジャーリーガーの打者と向きあう人生上またとない経験こそ、小林秀雄の謂う“強いられたもの”であるからだ。個人レベルでの“日露戦争”ともいえる。自身が120%の実力で、寸でのところで、紙一重で勝利する、その経験である。
 もちろん、投手だけではない、中村悠平や甲斐拓也などの捕手も当然、蔭なる殊勲賞ものであり、その後の財産ともなる経験をしたはずである。
 この若手へのチャレンジを信頼して、任せた栗山監督も、あっぱれである。緻密な、計算の上での、投手起用でもあった。特に、村上宗隆を最後まで、信頼して起用した、そのリーダーとして慧眼・信頼・愛情といったものは、メキシコ戦で村上がサヨナラヒットを放った後の、栗山監督へのインタビューが証明してもいた。かすかに目を潤ませて、村上についてコメントしていた場面は、監督として苦悩・決断という葛藤を物語ってもいた。

 今般のWBCは、選手一人ひとりに究極の勝負とは、真の意味での真剣勝負とは、こういうものであると教えた意味で、第1回、第2回での優勝とは、また別の意味で、日本のプロ野球選手を成長させたことは、間違いない。投手にしろ、打者にしろ、今回のWBCは、選手一人ひとりに“巌流島”を経験させたという意味でも、また、その凄みを日本中のテレビ視聴者に与えたという意味でも、サッカーに人気の面で押され気味の野球が、また盛り上がるような気がする。

 私の敬愛してやまない名監督野村克也氏の名言「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」が、今回のWBCの侍ジャパンの試合ほど、当てはまらない事例を私は知らない。この名将の言葉が適応できないケースは、唯一、巨人の黄金時代V9だけである。その点について、次回語ってみたい。また、三原脩率いる西鉄ライオンズ黄金時代かもしれない。

 補足として、毎年、以上の経験に似た経験を、教え子に諭す話で締めさせてもらう。特に、高校3年生の4月の初めにするものである。

 高校1年、2年と高校3年の1年間は全く違う。時間そのものは変わらない、自身の内面を流れている時間の質が変わる、濃密となる、かけがえのないものとなる。違うと意識、自覚しなければ、入試の敗者となる。それは、勝負師すべてに該当する、経験と時間の理でもある。受験1年前では、勉強へのメンタルがガラッと変わる。否が応でも追い込まれる精神状態になる。大学を卒業して、社会人になったとしょう。「ああ、あの1年が人生で1番勉強したな!しんどかったな!」と思い出される時期がくる、そう思った人は、自身が満足納得いく大学を卒業した人間である。この1年、自己を極限状態に追い込めということである。毎日を真剣勝負で過ごせということでもある。あの宮本武蔵が≪二刀流≫を編み出した萌芽は、その瞬間は、“道場(教室・学校の定期テスト・英検のテスト)”という場所ではなく、吉岡一門という80名ほどの相手と“生死を賭けた切羽詰まった極限状態(大手予備校の模試・本番の入試)”であったという事実を鑑みれば、容易に納得するであろ。
 人間は追い込まれた状況下こそ、真のものを獲得するのである。ここに、人生の達人、小林秀雄の真意が存する。




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