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「成功の反対は失敗ではない」から"基礎"とは?

 まず、成功の反対は、何でありましょうか?辞書を調べる、また、弊塾の生徒たちに質問すると、100%で、失敗と応じてきます。これは、言語的、国語的に誤りではありません。では、真の意味、実人生的文脈で言えば、それは、妥協という言葉になると思われます。これは、どういういうことかと申しますと、例えば、両親、友人に対して、「俺は東大に行くぞ!」と宣言しておきながら、その追加事項の文言として、「俺は東大に合格できかなかったら、高卒で働く!」とまでは言い切ることができるでありましょうや?このように、人生的文脈では、はっきりと白黒に判別できない状況がほとんどではないかと思います。芥川龍之介も語っています「人生は地獄よりも地獄的である」と。
 
 高校1年次、「俺は東大に行く」と、友人知人に宣言しておきながら、高校2年になると、「早慶でもいいかな」と、内心弱気になる。高校3年になると、「MARCHのどこかしらに行ければいいや」と、周りには、一切東大の“と”の字は勿論、早慶の“そ”の字すら口にしなくなります。このように、人間とは弱いものです、自身の目標や目的の基準が高いと、それに要する努力といいましょうか、その労力のしんどさに、どんどんハードルを下げる、自身の鍛錬の質を下げる、“弱い自分”と妥協をみるという、人間の悲しい性にメンタルが覆われてしまうものです。こうした姿勢こそ、成功の対義語が、失敗から逃亡する、一見、そうは見えない心的態度を、妥協と申しあげたわけです。
 
 実は、この「成功の反対は失敗ではなく、妥協である」という謂いは、以前、深夜のテレビ番組で、知る人ぞ知る、昭和の関西漫才界の雄、横山やすし・西川きよしコンビを育て{長期にわたりマネージャーを務めた}、ダウンタウンを発掘し、育てあげた、吉本興業の名プロデューサー木村政雄氏のものです。今の吉本興業を、関東進出を皮切りに、成長させた立役者として、現会長の大崎洋氏をイメージする方が多いやも知れませんが、実は、その背後には、この木村政雄氏は、無視できません。丁度、中国共産党の、毛沢東と周恩来のような関係でもありましょうや。
 
 ここに、いくら学校で習う、国語のお勉強では得られない、人生上の言葉の真理というものの奥儀というものがあるのです。余談ではありますが、このような、人を魅了する言葉の魔術師になりえるか否か、それが、お勉強秀才に留まる東大生と、東大生という殻を破れる、破った賢人との試金石ともなるものです。言葉を国語で考えるか、漢字検定1級に血眼になっている漢字資格居士の社会人のことば観と、教養の次元でそれを認識しているか否かの違いでもあります。また、禅的<公案>の問いを、常日頃、心の中に秘している態度を持っているかの違いです。
 
 もとにもどります。学校教科上の成功の反対語、それは、失敗となります。一方、実社会の徳目上の成功の反対語、それは、妥協とあいなります。この人生上、学び上、それの要諦、心得として、名将野村克也氏は、「成功と書いて、“退化(たいか)”と読む、失敗と書いて、“成長(せいちょう)”と読む」とも教え子に諭したわけであります。
 
 ここで断線しますが、努力とは、ある目的なり、目標なりが達成された時点で、ひとまず終了します、一息をいれます。人生上の、それそれぞれの段階の、まるでボクシングのラウド制の3分の区切りに考えるようなものです。それに対して、精進とは、休むことなく、目標は通過点であり、ある意味、無限に、努力が続くメンタル、それを精進といいます。弛まぬ努力とは、精進の道の入り口、入門編の言葉ともいえましょうか。
 
 では、こうした成功、失敗、そして妥協といった、国語的文脈では、計り知れない、奥深い関係というものが、実は、前回にも言及した基礎という言葉が、英語に置き換えた時、浮かび上がってもくるのです。
 まず、基礎という言葉、大方の人、中高生などは、まず、basicという英単語を引用してくるかと思います。そうです、basic、それが月並みな日本語に対する英語の相当語でありましょう。
 弊塾の生徒の中高一貫校などで、英語のレベル分けのクラスが、4クラスあり、上位1クラスがアドヴァンスクラス、下位1クラスがベイシッククラス、そして、中間2クラスがスタンダードクラスという学校が結構ありました(今もあります)。これは、英語の学力による選別に由来するものです。これからも、おわかりのように、basicの反対語は、advancedなのであります。“大きい”というという英単語が、一般的にlargeであり、その対義語がsmallとの関係にも類比しています。このbasicやadvancedといった、特に、前者の基礎というニュアンスには、建物の一階、二階、三階といった、水平軸の範疇の枠内での意味しかないということであります。
 ここで、さきほど、申し上げた、成功と失敗の語義的対立事項の背後に隠れた、妥協という、もう一つ別次元の意味、自身の行動軸として、自らの学びの規範として心得ておくべき、隠れた対義語を弁えておくべき意義が浮上してくるのです。それは、basicとadvancedの対立事項として、そのadvanced(応用)の反対語とは、実は、fundamental(基礎)でもあるという真実、強烈なる自覚です。advanced とbasicとを縦軸で、それを繋ぐ概念、それこそが、fundamentalなのです。これがないと、進歩、成長、進化というものは不可能なのです。
 
 前回に引用した例、東大・京大にぎりぎり合格した者のメンタル上の座標軸、それは、<basic⇒fundamental⇒advanced>というように、fundamentalが介在してくる、彼らにはそれが確固として意識されてもいるのです。歴史でいえば、国公立の二次試験の記述問題を解ける否かが、そのメルクマールでもありましょうか。山川出版社の『一問一答集』を、ほぼ完璧に覚えていても、東大などの記述問題は歯が立ちません。
 一方、MARCHレベルの大学をぎりぎり合格した者の心の座標軸は、<basic ⇔advanced>といった対立事項、それしか意識にはないのです。この、fundamentalを欠いた決定的な心的態度は、インドのカーストの階層、江戸時代の士農工商の制度、こうした水平軸から自身が脱皮できない、自身の成長に大きな壁、いや、見えないガラスの天井ともなっている心的現象を生じさせてもいるのです。
 
 ここで、端的に申し上げると、このbasicfundamentalの違いとは、前者は水平軸の、物事の質、能力、技能のレベルを言う、それに対して、後者は、basicadvancedとを縦軸で結ぶ基軸(枢軸)ともいえるものです。丁度、五重塔の心柱、高層建築物の鉄骨のようなものなのです。こうした、縦軸の範疇も基礎といいうるものです。あの自由の女神像の内部の鉄骨の骨踏みが、まさしく、エフェル塔の建築手法と同じように、また、エフェル塔の骨組みが、鉄橋などのアーチ型をした三角形構造の応用に過ぎないという、そうした共通事項への強烈なる自覚、それこそが、basic ではなくfundamentalというものの、基礎の奥儀でもあるのです。
 
 よく、“基本的人権”などという言葉、社会科の授業や実社会のニュースなどで耳にします。英語では、二通り言えます。それは、basic human rights とfundamental human rightsであります。前者は、どこか軽々しい、日常生活上のニュアンス、一方、後者、どこか重々しい、法曹上のニュアンスの薫りがします。憲法では、fundamental を、民法、刑法上の解釈的文脈では basicを、それぞれ使い分けてもいるような気がします。fundamentalには、理念の意味合い、basicには、現実、実際の状況的意味あい、それが内包されているように思われます。こうした根幹的な違い、言葉へのこだわり、明治時代以降の翻訳法律用語の限界、特に、大日本帝国憲法上の様々な解釈など、欧米語との、その政治的・制度的ニュアンスへの齟齬が、日本を戦前悲劇へ導いていった要因の一つではなかったと思われます。
 
 最初に語った事例、「成功の反対は、失敗ではなく、妥協である」、これを捩って、advancedの反対語、それは、basicではなく、fundamentalである」と、また、basicの反対語、それは、fundamentalでもある」と、それを強烈に自覚している者、そのメンタルの営為、それこそが、努力ではなく、精進と言えるものです。学びにおいて、真の意味で高大接続している学生、大学と会社とが“知”でドッキングしているビジネスマン、その人こそ、“知のfund”を保持してもいる人間であります。こうしたものの見方もまた、教養という高き峰を、“東西南北”という、様々な方角から概観した<一光景>でもあると言えるのです。
 
 では、次回、この基礎をbasicとだけ認識している高校生、そして、それプラスfundamentalでもあると自覚している高校生の学びの姿勢に関して語ってみたいと思います。この二つの概念を、現場受験生の次元に下げて語ってみたいと思います。(つづく)
 
 

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