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塾や参考書はエステや化粧品である

 「むずかしことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことをあくまでゆかいに」これは、井上ひさしの名言でもあるそうだ。この言葉を、換骨奪胎し、私は、意識的か、無意識的かはわからぬが、大学生の家庭教師時代から、この言葉を聞く以前から、「難しいいことを易しく、易しいことを面白く、面白いことを為になると思わせ、為になると思った者を知的に教える」{※この難しいから知的への“学び”上の円環的精神の営みこそ学びの精髄とも思われるのだが}として、他人にモノゴトを教えることがモットーとなっていったような気がする。

 日本では、奈良仏教(国家仏教)から鎌倉仏教(庶民仏教)へ、世界では、カトリック(権力者のキリスト教)からプロテスタント(大衆のキリスト教)へ、こうした宗教上の大改革の根底にあったものは、以上の井上ひさしの言葉の理念に近いものがあったと思われる。

 こうした“教え”の心得は、塾講師に、必須の要件にして原則でもあろう。小学生の頃から予備校時代にわたって、学ぶ対象(教科)のみならず、その教える(科目)側のスタンス・心得も、私は学んできたように思われる。教える側の、学校の教員と塾の講師の科目を教えるスキルの違いにはっきりと表れる特徴である。

 ここで脱線するが、多くの予備校講師や塾講師は、数学や英語などその科目の内容のみならず、その“科目”から、その教科の教え方をも学んできた部族ともいえようか?

  この「難しいことを易しく、易しいこと面白く…」といった、私の教える立場の心得は、一般的に、小学校低学年、高学年、中学生、そして、高校生と、だいたい、その指導者としての基本基軸となるべきものと確信している。中学までは、一応義務教育というプロセスもあり、思春期という微妙な年齢もあり、秀才から落第坊主にいたるまで、すべての衆生(その教科に苦悩している生徒)の面倒みなくてはならない。これは、学校の教員である。一方、民間教育機関、一種サービス業ともいえる塾は、レベル別、能力別、目的別と十把一絡げにはできない宿命にある。ここで、以上の私流の教え方のスキルと教員・教諭のものがずれてもくる。

 では、この私の流儀とは、天才から秀才にかけて、適用可能、適用の必要性があるのかといった命題が浮上してくる。

 前回、名前を挙げた、脳解剖学者養老孟司氏は、「子ども(小学生)は、自然の中で育てるべし、また、学校は、日ごろの生活(デジタル社会や放課後の受験勉強など)の避難場所たるべし」と語ってもいる。思想家内田樹氏は、「学校という場はむしろ知的なことは教えなくてもいい。現今の教育はサービス業(コンビニ)になれ下がってもいる」と現代の教育風潮に横やりを入れてもいる。更に、脳科学者の茂木健一郎氏は、「日本には、塾や予備校などなくせばいい、こんなもの不要だ!TOEICなどの資格系英語試験なども要らない!」とネットで喚き散らしてもいる。

 この御三方(天才?)は、ある意味で、中等教育まで秀才以上の勉強資質を持ち合わせていた連中である。黙っていても、教科書など、一読して理解し、頭に入っていたことであろう。これは、脳科学者中野信子や国際政治学者三浦瑠麗なども語っている“天才=高いIQ”の証明書でもある。子ども時代から青年時代まで、家庭教師や塾・予備校の類は、無縁な10代を経てきたことは疑いようのない事実である。こういう連中が、準秀才以下の“教育”を論じるから、以上のような言説を吐くことになる。

 これは、弊著『反デジタル考』でも言及していることだが、東大生の知的階層は次のようになっているのが実態である。

 上層部(天才)は2割、中層部(秀才から準秀才また努力家)は6割、そして、下層部(がり勉)は2割、これが東大生の知的資質の実相でもあろう。よく、耳にする言葉、「東大は努力して入るところではない!」は、この半分以下の努力層の学生が、上層部の天才・秀才を駒場・本郷キャンパスで目の当たりにさせられるからでもあろう。

 実は、以上の知的階層は、日本の小学生から高校生にかけての学力層の縮図でもある。
 これは、前回も引用した比喩でもあるのだが、世の化粧品、美容室や衣服、エステ、美容整形などというものは、教育界の家庭教師・塾・予備校に該当するものである。
 化粧品から美容整形にいたるまで、本来は、美形の顔立ち、スタイル抜群、肌がみずみずしく少女肌の女性は、黙っていても、目立つ、男性の注目を引く、いわば、もてるのである。そうなりたいがために、女性は、永遠に美(容姿端麗)を追い求める。これと同様の学びのプロセスが、人間心理に、勉強・学力・学校(大学)というキャリアとも映ってくる。そこで、化粧品やエステで、美人になろうとするのと同様に、一般少年少女は、塾などに通い、“知的下駄”{=頭をよく見せようとする下心}を履くのである。これは、私などの少人数の塾を長年経営している者が、十分認識している真実なのだが、特に中高一貫の女子校にかぎり、塾に通っていることを、秘密裏にしたいという深層心理がある。「私、塾なんか通ってないわよ!」と言って、英語の成績がよいタイプの女子である。「なーだ!田中さんって、塾に通っているから英語ができるんだ!」と周囲に思われたくない心根である。よく、芸能人などが、「Xさんって、いつ見ても綺麗ね!なんかエステや肌のメンテなんてやってるの?」と言われ、「別に、何もしていないわ!」と応じるケースと類似する心理である。また、日本の女性の美容整形をカミングアウトできない社会風潮(外圧)も同様である。ある意味、性格が悪いと烙印を押されかねない女子・女性がおおい。それは「田中さん、肌がきれいね!髪もみずみずしい!超、その服似合っている!」と、裕福な、女子が、大枚はたいて、エステ、美容室、そして、お抱えのブティックがあればこその、美でもある。アンチエイジングをしているセレブなど(君島十和子・後藤久美子・菜々緒)、この典型でもあろうか。
 こうした女性における美の維持と同様のものが、塾に通い周囲から頭がいいと思われたいといった少年少女でもある。

 大方、実社会は、『人は見た目が9割』(新潮新書)の曲解ではないが、外見で運不運を招くのが世間の一般庶民というものである。だから、外見の学歴という意味でも、就職から友人関係・恋愛に至るまで、そうしたものに拘泥せざるをえない実体が存するのである。韓国が、超学歴社会という実体と、超美容整形先進国である事実は、コインの裏表であり、それをものの見事に証明している。

 養老、内田、茂木、この“知的三美人”には、化粧もエステ(塾も解りやすい参考書)も必要なし。黙っていても、アカデミックから社会にいたるまで、知的苦労(凡人が苦労する暗記力や理解力の欠如)なしに、自由自在に泳いできた経験があるからこそ、先ほど列挙したような発言をするのである。
 義務教育段階の‘お勉強’とは、知的な‘お化粧’に等しい。少しでも、賢く、綺麗に思われたい、見られたい、そうした下心が、エネルギー源にある。まあ、それの手助けをしてあげるのが、塾であり予備校でもある。しかし、内面の美しさ、これを鍛えることが、大学を卒業して社会で働いた者のみ、また、恋愛を経験した者のみ(世間の実相を認識した者のみ)が、教養ともいえる、目には見えない“美”、理性・知性でしか認識できない“知”、それに向かい、真の学びに踏み出すものである。これを、学問という。(つづく)



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