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教育とは、遺伝、環境、金、あるいは運?

 前回、東大の2割は天才ゾーン、6割は秀才から準秀才、そして努力ゾーン、残り2割は、がり勉ゾーンと述べた。養老孟司・内田樹・茂木健一郎たちは、この上位2割のゾーン、生来の容姿端麗の、知能における“美人”である。彼らに近づく、彼らのように思われたい、そういった意味でも、エステサロン・化粧品などが存在し、少しでも、知的カモフラージュをする観点からも、塾・予備校という存在があると申し上げた。
 
 私流に言うならば、「氏より育ち」の真意は、この6割ゾーンに該当する真実でもある。この格言をまさに実行して、秀才ゾーンから天才ゾーンへと‘ギフト’の飛躍(下剋上)をした者たちが、斎藤秀雄メソッドで大成した多くの音楽家{小澤征爾・堤剛など}、そして、岡本太郎、千住三兄妹、五嶋みどり・龍の姉弟たちといった、芸術分野で花開いた人々でもあろうか?これと次元は異なるが、受験でも、同系統の教育流儀が行われているに過ぎない。但し、以上の者たちを、生来の天才と思う人もいるやも知れないが、私から言わせると、彼らとて、才能の“秀才”であり、“準ギフティット”である。<この母にして、この子ありの“天才”>でもある。
 
 「人は、見た目より内面だ」、この言い古された謂いは、近年では反転し、「時代は、学歴より学び歴だ」という文脈に教育面では、言い換えられてきた模様でもあるが、やはり、学歴ありきの者が、スタートラインで、何かにつけて優遇されるのが世の習わし(就活や転職、そして芸能の世界など)でもあろう。
 
 教育の経済学{教育における対費用効果の観点など}で一躍有名ともなった、『「学力」の経済学』の筆者中室牧子氏の言説ではないが、学歴、ほぼ、卑近な謂いだが、「“教育”とは金で買えるものなのか?」{≒金をかければいい私立中学校や名門大学へ進めるのか?}また、通常言われていように「報酬を与えるとか、褒めるという行為は学力向上に結び付くのか?」といった命題が浮上してもくる。
 
 更にまた、最近、知る人ぞ知る人物、教育心理学者で安藤寿康慶應大学名誉教授の著作物も無視できないアングルのものである。
 
 『生まれが9割の世界をどう生きるか』『教育は遺伝に勝てるか?』といった題名からも、うすうす想像がつく、環境か?遺伝か?といった究極の問いかけが浮上してもくる。実は、この安藤氏が、投げかけてくる問いは、以上に挙げた、東大の6割の層の人々に言えることである。確か、安藤氏の説、5割は遺伝{血統}、3割は教育(環境){調教}であるといった文脈からも、それは、ある意味、競馬のオッズに似ていることは、寺山修司の名言「競馬は人生の縮図だ」ではないが、サラブレッドの優駿、駿馬と駄馬にも学生が喩えられることに等しい。今太閤こと田中角栄の総理就任時の人気、ハイセイコーやオグリキャップの異常なまでのブーム、これらは、『ドラゴン桜』が支持される大衆心理・大衆精神構造の根幹をなしてもいる。フランス革命なんぞは、この精神構造から起こったに過ぎぬ。
 
 また、秋元康プロデュース(おニャン子クラブから乃木坂48まで)の商魂意図も想起されよう。素人を、“アイドル”や“スター”に仕立て上げる芸能手法である。これなんぞも、昭和から平成前半までは、手の届かない偶像としてのアイドル・スターから、ファンが握手までできる身近なレベル、となりのお姉さんレベルにまで、そして、平凡な、どこにでもいる、ちっとかわいいくらいの少女が、アイドルになる、芸能版ドラゴン桜(下剋上:AKB48総選挙なるものがそれを証明している)を現出した。これも、ひょっとしたら、昭和のワタナベプロ王国と平成のジャニーズ帝国との違いかもしれない。平成という時代は、ある意味、努力で“スター”になれたように、中高生は、同列の意味で、塾や予備校で、“秀才”になれた時代でもあった。事実、『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書){これを捩って、“秀才は努力が9割”とも言えようか!}のような書籍もあるくらいだから、その裏付けともなろう。
 
 ここで、‘親ガチャ’ではないが、また、マイケル・サンデル教授の言説、『実力も運のうち』ではないが、芸能にしろ、学業にしろ、大方、6~7割は、運が左右するといってもいい。余談ながら、この個人的“運”というものを強烈に意識していて、重要視していた経営者が、まさしく、あの松下幸之助でもあった。彼の人生に、努力や天分を観ていても、彼に、“運”の匂いをかぎ取る人はあまりいない。実は、それが、人間の一生の実相でもある。この、“運”という天祐という存在を、意外と認識、痛感している部族が、ノーベル賞受賞者たちでもある。私の知る限り、山中伸弥、中村修二、大村智、吉野彰などは、天分と努力が5割{※この5割でも、凡人には9割以上の難行である}、そして、あとの5割が“運”というもので、その栄誉(偉業)が完結したといってもいい。
 
 また、競馬の例を出すまでもなく、天才から秀才は、優駿(クラッシックレースで勝つ馬)なのである。駿馬(G1レースで勝つ馬)は、準秀才から努力家くらいであろうか。半分以上は、人間世界では、凡馬や駄馬などには、“名ジョッキー”を必要ともするが、そうした名騎手は、そうした2~3流の馬には鞍上しない。それは、超エリート進学塾鉄緑会が、私立の名門御三家の学校以外を断る理由と似てもいようか(笑)?ときたま、大番狂わせで2流のサラブレッドなどが、G1レースで勝利すると、ビリギャルや西岡壱誠のように、メディアで大注目ともなり、受験のヒロイン・ヒーローともなる。
 私なんぞは、弊塾から、東大へ、東工大や一橋へ、また国立の医学部へ合格したケースなどは、決して私の教育手法や教え方のよるものなどとは、思ってもいない。
 
 「おかげ様で、以上のようなX大に合格しました」とお礼のお言葉を親御さんから拝受しても、いつも「一番人気の名馬に乗せてもらった、2流騎手の役目をなんとかまっとうしただけのことです」のようにご返答させていただいてもいる。
 
 競馬通の方なら、ご存じやも知れぬが、自身は、“名”ジョッキー岡部幸雄{※“名”を冠したのは、天才武豊とは、部類が違うからでもある!}のような塾講師とも自認している。彼は、昭和の終わり、名馬シンボリルドルフ{※史上4頭目のクラッシック3冠馬、そして史上初のG1レース7冠馬ともなった名馬、しかし、その名馬でも、私から言わせてもらえば、名調教師野平祐二がいればこその名馬でもある}に鞍上して、名騎手の域に登り詰めた人物である。『ルドルフの背』という彼の本を読んでも、彼は、“ルドルフに育てられた、教えられた”とも語っている。このルドルフに出会う以前は、平凡な騎手であったが、彼に出会って以後、様々なG1レースなどに勝ち星を上げ、超一流ジョッキーに登り詰めた。「医師は患者によって作られる。教師もまた生徒によって作られる」(伊藤和夫)この言葉には、岡部とルドルフとの関係、それと同類の真理が存するとも言える。
 
最後に、カリスマ現代文予備校講師林修の言葉を挙げて締めるとしよう。
 
 彼は、大学合格発表後(ほとんどが東大合格でもあろう)、教え子から、「おかげ様で、合格できました。ありがとうございます」と講師室に挨拶に来られる受験生に、以下のような言葉で返すそうである。
 
 「俺のところに挨拶に来るくらいなら、親に感謝しろ」と。
 
 実は、この言葉には、三重の意味が内包されてもいよう。
 一つは、親の頭の良さを遺伝できた、その恩恵への感謝の念である。天分(IQの高さなど)を授かった運命への感謝である。
 
 二つ目は、自宅など、三度の食事の栄養面、本人中心に家庭内を回してくれた両親兄弟への、環境面への感謝の念である。勉強しやす生活を演出してくれた家庭への感謝である。
 
 三つ目は、金銭目の恩恵である。私立の学費の高い高校、そして、東進ハイスクールやその他の塾、さらに、家庭教師や個別指導など、一般高校生の標準レベルをはるか上を行く、教育費を賄ってくれた、金持ち両親への感謝の念である。
 
 以上の、三つの要素のどれかしらに引っかからないかぎり、現状の、今の日本の大学入試(東大合格など)の勝ち組には、世知辛いながも、なれない実体というものが、林氏の言葉の背後に読み取れるのである。
 
 ここにこそ、教育とは、遺伝か?環境か?それとも、金銭か?という複合的命題の答えが存するのである。
 
 私が、林氏の立場であれば、「俺のところに挨拶に来るくらいなら、自身の運命・人生に感謝しろとも吐くかもしれない。それは、以上の三つの要素の他に、神のみぞ知る領域、“運”というものが介在してくるからである。この第四の要素を自覚して、日々のルーティーンに勤勉なまでに、自制心で、己の道を突き進んでもいるスーパー・スター、それこそが、大谷翔平でもある。彼の「人生達成ノート」、いわゆる、“マンダラチャート”が、その証拠でもある。この、側面で言えることは、非学歴大成者松下幸之助には、認識されていても、超学歴エリート天才、養老・内田・茂木の御三方には、見えない、聞こえない“神”の教訓でもある。
 
 この、“運”というヴェールは、月並みな天才には、見ない。超がつく天才(ノーベル賞受賞者)か、非学歴エリートの大成者(松下幸之助や稲盛和夫)にしか見えないのは、近世の“理性の権化”ともいえるデカルトやパスカルが、“神”という存在を信じていた“人間の心という理”と底辺で繋がっているものかしれない。
 

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