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オフィスにGood-byeできても、教室にGood-byeはできない!

 Rethinking the MBA in the coronavirus era
 
オンライン教育の限界 米ビジネススクールへの入学 二の足踏む留学生
 
 教育のオンライン化が進む一方、海外留学の分野では問題も浮上しています。最先端の経営学を学ぶため世界中から多くの留学生が集まる米国ビジネススクールを、コロナ禍が直撃しているのです。経営学修士(MBA)号の取得に高い学費を払うのは、将来につながる人脈作りも見込んでのことなので、オンライン講義に切り替わった入学をためらう人が増えていると言います。ビザの発給停止も重なり、留学生が来なくなった名門大学は頭を抱えています。  AsahiWeekly Sunday, June 14, 2020   より
 
 以前、このコラムで「デジタルはアナログには勝てない」と、申しあげたが、そのデジタルの虚妄、限界、教育上の負の側面、それが、この記事で指摘されてもいる。そうなのである。トヨタやパナソニックが自身の最先端の研究所を、シリコンバレーにわざわざ置いている最大の理由も、現地に住む、世界の、埋もれた、無名の、飛躍前の、ジョブズのような天才に出会えるから、また、生の出会いから何らかのヒント・助言がもれえるからである。そうした、知的空間のあそび・余裕といった“無駄”を僥倖とすることが最大の理由だったのである。これと同義で、欧米の、特にアメリカの大学に入学する、影の理由が、オンライン教育で消滅してしまった、大学側、そして、学生側のジレンマ、即ち、<高等教育の学びの危機>についての特集でもあった。
 これは、インターナショナルな、ハイレベルの高等教育機関においてのオンライン授業の弊害でもあるのだが、この大学におけるオンライン授業の弊害は、わが国日本でも、潜在的にある、いや、これから、ますます顕在化してくるであろう、そう思ってもいる矢先に、毎日新聞に次ぎのような記事が掲載されていた。
 
遠隔化は大学の危機
授業の合間にある学び
私語もサボリも教員との対話
 
 こうした見出しである。そのポイント、一部を引用させていただくと、以下の文言が、そのオンライン授業の急所というものを、まさに突いている。
 
 キャンパスに学生が通う意味を、鈴木謙介関西学院大準教授(社会学)は、「裏のカリキュラム」という言葉で表す。授業(=表のカリキュラム)だけが大学ではない。サークルや寮、研究室などに世代や興味の近い人間が出入りして長時間を過ごす場でもある。学生は、そこでの交流による学びという「裏のカリキュラム」も「履修」する。学外のアルバイトや社会活動なども「裏のカリキュラム」だろう。社会人には難しい「モラトリアム」な時間が、授業とともに学生を育ててきた。
 しかも、近年の文系は、グループワークなどで学生同士のコミュニケーションを積極的に授業へ取り入れてきた。
 「授業準備のスペースで雑談し、準備後一緒に食事へ行くなどの『裏のカリキュラム』を生む仕組みに、大学として価値を見いだし、設備投資してきた」(鈴木准教授)
 もっと言えば、正規の授業も「裏のカリキュラム」的な要素と地続きだった。対面授業で、学生は論議や質問だけでなく、私語や居眠り、サボりすら込みで、教員と対話してきた。鈴木准教授は「文系の大学教育は、たとえば学生が90分間、マルクスについて聞こえる空間にぼんやりと身を置き、『そういえば、俺のバイト先でも……』と連想するようなことも含めたものだった。遠隔授業だと、知識を正確に学ばせる以上の広がりが持ちにくい」と話す。
 言い換えると、国立大法人化(2004年)当時の京都大学学長だった尾池和夫・京都芸術大学学長のこの言葉になる。「大学教育は五感すべてを使うもの。遠隔授業は二感(視覚と聴覚)しか使えない」。近年の大学改革は、「裏のカリキュラム」につながる「無駄」を省き、授業を「ばら売り」して知識を教え込む場へと大学を転換させてきた面がある。遠隔授業は、完成形にも見える。だが、尾池学長は「大学は、学生が卒業後も新しい技術や事態に対応する力、言い換えれば、生涯学習を可能にする力を養う場」とも話した。二感だけの大学に、生涯にわたる学習力を養う余地はあるだろうか。
   毎日新聞2020年6月24日(水) 鈴木英生 専門記者の記事の一部より
 
 これは、効率主義・成果主義の究極が求められる企業社会における将来像、今流にいえば<理想形>を、高等教育の文系の場であてはめようとするものだ。
 テレワークやらリモートワークやら、盛んに叫ばれてはいるが、コロナ以前のサラリーマン社会では、アフターファイヴの同僚や上司との飲み会、家庭の空気に嫌気がさし、会社が息抜きの場としているお父さんサラリーマン、通勤時間を“電車ジム”と考えて、最低限度の運動でなんとか健康維持をしている中年サラリーマンなど、家庭だけでは息詰まる、ストレスがたまる、運動不足になる、今の若者の部下の心理というもの、女子社員の考えていることなどなどオフィスで感じ取り、自身も人間的成長をしてきたビジネスマンは少なくないはずである。そうした、諸々の社会人としての“ハレ”と“ケ”の両面があったればこそ、日本の働くお父さん連中は、何とか定年まで勤めあげることもできたのである。
 マッキンゼーやらボストンコンサルタントやら、外資系コンサルタント会社に勤めるエリートビジネスマンは、大方、30歳前後で辞めるそうだ。年収は高いが、緊張の連続の毎日、無駄の許されぬ日常に精神と肉体が悲鳴を上げるからだともいう。そういえば、アメリカのエリートビジネスマンは、40歳台にリタイアして、その後、引退生活を、あの大橋巨泉の如く謳歌するのも、その文脈で言いえているものと思う。
 マッキンゼーの社員は、F1のレーシングカーのハンドルのようなものである。それに対して、一般的日本のサラリーマンは、市販の自動車のハンドルのようなものである。前者(アメリカエリートビジネスマン)の生活には、あそびが全くない。それに対して後者(日本の標準的サラリーマン)のハンドルはあそびがある程度必要、むしろ、大いに必要であるということである。{※日本人全員がF1ドライバーを目指せ的風潮に違和感を持つ!}
 大学にしろ、会社にしろ、これから100%を目標にリモート化、オンライン化が進めば進むほど、効率性、結果数値、これにのみ目がゆく、非人間的な社会というものが到来する。リモートワークと称して、無駄が一切許されぬ“オンライン版モダンタイムス(チャップリンの名作映画)”の時代が来やしないか危惧する限りである。グーグルやアップルの本社には、社員が職場でリラックス、遊べる、余計なことを考えられる、ユニークな発想が思わず浮かんでくるような空間がいたるところにある。また、そうした、世界に冠たる一流企業の社員は我が子に初等教育の段階で一切デジタル器具には触れさせない教育方針であるとも聞く。
 その時になって、初めて、オフィスやキャンパスの教室の良さといったものが、この日本で顧みられもするだろう。その時は、新型コロナウイルスのワクチンがすでに開発されていることを望むばかりである。
アマゾンでネットサーフィンをしながら書籍を購入する愚行と、大型書店や専門書店で書物を渉猟して購入する慧行とが区別できない政治家が、このコロナ禍の日本を舵取りしているのである。
 
 

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