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学校とは"託児所"であり、"拘置所"である!

 最近では、某週刊誌で、ビートたけしの発言が少々往年の鋭さに欠ける、切れ味が鈍ってきているなどと揶揄されているようである。それも仕方なしである。年齢には勝てないものである。また、最近では、若い女性と再婚し、“世田谷ベース(自宅)”と放送局とを行き来するだけの、“芸能界の仙人”所ジョージの幸せな家庭生活に憧れの念を吐露するところも、数十年前「理想的芸人は浅草の仲見世の商店街で深夜野垂れ死にしているものだ」と語っていた芸人虚無主義、芸人破滅主義といったものが一切なくなってしまっている好好爺カリスマ芸人となってしまっている感が否めない。
 ところで、もし20年前のビートたけしが今のコロナ禍のご時世にいたと仮定したうえでの話をするとしよう。
 
 平成以降、ある意味、昭和の末期もそうだったのだが、実は、義務教育の小学校から中学校にかけての教育機関は、勉学(科目)を教える機能は、二の次だったと断言しよう。まず第一は、社会に出る以前の、思春期までの託児所的機関であったということだ。小学校は幼稚園・保育園の延長で、親が朝8時から夕方4時まで自身の生活を自在にするために、12歳以前の子どもを預かっておく施設であったということである。そのおまけで勉学や集団生活の社会性を身に着けさせるということが、口が裂けても文科省が口にはできない実態だったのである。実は、親が会社勤め、自営業の商店の経営に専念できるためのものであったという、その付随として<読み書き算盤やその他の教科>を教えていたといってもいい。
 
 次に、中学校は、ちょうど難しい思春期ともダブってくる都合上、朝の8時から夕方4時、更には、完全に両親が在宅している時間帯でもある6時近辺まで部活動まで義務付けて、少年少女を拘束する機関であった。親が不在の昼間、不良にならないように、不良仲間と交わらないように、歓楽街や巷の公園などで飲酒や煙草はもちろんのこと、未成年として不都合・不適切な行動・行為を予防するためにも、鉄筋コンクリートの“拘置所”に入所させておくというのが文科省の“本音の掟”であった。私服だと世間の大人が社会人(高卒で働いている人)か中学生か判別できない都合上、学ランやセーラー服などの制服を義務づけてもいた。ちょうど、脱走した囚人が、縞模様の刑務服を着用させられているように、すぐ十代のど真ん中の年齢の少年少女だと判別できるようにしていたのである
 
 高校生ともなれば、法律上、義務教育ではない。よって、学校関係者は、校則の如何によって退学・停学など、自在にできるものの、やはり、その親は、準義務養育という社会通念上(世間体)と不良化の予防的機関として、中学校の延長線上で我が子を最低限、どこかしらの高校に所属させていた、通わせていたのである。勉強に無関心、部活もしない、名ばかり高卒の資格だけを目当てに中等教育の後半を終了したいと思う少年少女は、渋谷や原宿などの歓楽街を制服姿で、お化粧までして闊歩する光景はあまりに有名である。しかし、何とか、朝8時から夕方4時くらいまでは、“よくない行為”に予防線を張られてもいて、“拘置所”から外へは出られない立場にいるのである。
 
 このように現在の日本の小学校から高校までの“学校というシステム”{※M・フーコー流にいえば監視機関}を概観してみると、太宰治の名言「子供より親が大事と、思いたい」(『桜桃』)ではないが、実は親の仕事・生活の都合で我が子を学校という教育機関に通学させていたともいえる。これは、逆説的真実であり、建前と本音の観点から、特に尾木ママこと、教育評論家尾木直樹氏などの教育理想主義者からは、「何をバカなこと言ってんのよ!もってのほかよ~!」と反論されるものでもあるが実態でもあろう。
 こうした、特に義務教育、とりわけ<公立の小学校から中学校=朝8から午後4時までの不良化予防の“拘置所”>説という観点は、文科省の現場放り投げ・現場任せ流指導でブラック職場化した実態からも証明されていよう。生徒に科目を教えるための仕込み作業・下準備すらできないことからも、学校現場が、<勉学二の次でOK>というお触書が当局から出されているも同然である。この視点からも言えることだが、学校側の不十分な教え方、不満足な教材、そして生徒の理解不能・理解不十分の結果、塾や予備校といった私的教育機関、つまり、教育産業の繁栄をもたらしたのも当然の帰結である。
 
 さて本題に入るとしょう。今般のコロナ禍による、オンライン授業の必要性、自宅学習の強要、プリントなどによる予習・復習の大量課題などなど、両親が共働きの家庭、子どもの勉強など教える能力・余裕のない父親や母親、さらに、自営業(飲食業など)でコロナの影響で自粛営業を迫られている家庭、こうした家族はただでさえリモートワークで自宅仕事、また、サービス業(ソーシャルディスタンスや三蜜などの強制“金科玉条”)のため休業状態、非正規社員で自宅待機を強いられている母親や父親が、一斉休校により自宅に我が子と一日中一緒にいる羽目になっている現状、こうした諸条件が家族内のストレスや軋轢、不和など、時にDVなど半端ないほど噴出させているのは、自明の事実である。
 
 このコロナ禍による、オンライン授業の不備、双方向型オンライン授業が可能な割合が5%に過ぎない現実、学校当局のアイパットやパソコンの普及率の低さ、こうした教育インフラの未発達の諸事情から<教育格差>がやたら声高に叫ばれているようだ。また、教育科目の進度の遅れ、授業時間の不足などを盾に、言い訳に、よき社会的屁理屈として、これまで、学校で本来勉強などする意志もテンションも低かった者(親・生徒)が、これ見よがしに「子供たちに勉強の機会を!」(父兄の声)「まともに、教科を教えてほしい!」(生徒の声)とやたらに騒ぎ立てている。特に親の発言が、滑稽でならない。当人の子ども、「ああ勉強を“教室でしたいな”と懐かしんでいるのが本音であり、本心、まじめに勉強したいと思っている少年少女は、少数派である。部活動や集団生活を懐かしんでいるのであり、自身の親と24時間自宅にいることに飽き飽きしていることを、「早く登校して、“教室で”みんなと勉強したい」と言い訳しているに過ぎぬのである。
 
 何度も言おう。学校とは、現代の日本では、親から離れ、少しでも“社会的悪”に染まらない隔離施設であり、その付随機能として勉強を教えているにすぎにない場である。これは極論である、また、逆張りの教育観であることを自覚しての謂いでもある。親も親で、テレワークにより、24時間自宅で仕事をする羽目ともなれば、通勤時間という皮肉なる“運動時間”を失い、肥満体質、非健康的生活を送ることにもなろう。また、人間的な生の付き合いといったものも失われ、部下や上司の感情の機微に鈍感なる社会人の増殖をもたらすことも副次的に生じもしょう。
 実際に、内実のところテレワークを行っている企業は、この日本にどれだけあるだろうか?また、どれほどの割合でサラリーマンがいるであろうか?本当に、ポストコロナの時代、令和3年、4年と、全てにおいてリモートワークに切り替えてゆく社会になるのであろうか?それは、ソフトバンクや楽天などのITの波に乗っているグローバル化が絶対のデジタル系企業であることが必須の条件である。しかし、実態として、パソコンのみで自宅作業ができる職種・業務といったものがどれほどの経済を回す原動力となっているだろうか?はっきり言うが、テレワークの不可能な小売業・サービス業が一番のあおりをうけていることが何よりの証拠である。
 
 この文脈で学校教育というものを考えてみたいのだが、義務教育の段階で、私は生徒を三層化に分類してみたい。
 第1の上層部は、学校は、勉強するという自覚が強い生徒の母集団。第2の中間層は、学校は、行くものだ、仕方なく義務教育だから通学しているのだといった気持ちの生徒の母集団、そして、第3の最下層は、本来なら行きたくない、勉強はしたくないといった感情で学校に来ている生徒の母集団、小学校から中学校(時に高校も)にかけての生徒たちは、この3種類に分類できるものと考えられる。上層部の生徒は、社会人のテレワークを行ってそれで業務支障なしのビジネスマンにダブって見えてくる
 実は、中間層と最下層の生徒の親たちの一部が、口うるさく、コロナ禍による授業の不十分、教育格差をわめきちらしている。しかし、その子供たちは、勉強のテンションは低いのが実態でもあろう。実は、その第2から第3層にわたる親たちが、自宅での子供の面倒ならびに少々の勉強の補習義務をウザいと考え、政府や世の中の教育システムに刃を向けているのである。
 
 託児所兼寺子屋式、教育的“拘置所”の機能不全状態に業を煮やして、コロナ禍による教育格差や勉強の遅れなどを言いはやしたてている風潮がひしひしと感じられる。こうした口うるさい親たちは、従来、学校という“学習の面”の教育機関にどれほど、異議を唱え、改革を求めてきたであろうか?この期に及んで、自宅学習という状況になるや、手のひらを反すように、“勉強!授業!教育格差!授業日数不足!”など、やんや、やんや大騒ぎである。実は、この絶叫の裏の声は、まさしく、24時間自宅待機の子どもへの不満、自身のストレスの蓄積の裏返しなのである。なにも、勉強の遅れが不安・不満なのではなく、自宅で<勉強機能>と<託児所機能>も背負わなければならなくなった現実の切なる言い訳・口実なのである。事実、最上層部の子どもやその親は、コロナ禍の中、マイペースで涼しい顔で我が子の勉学を見守っているはずだ。
 
 つまり、コロナ禍の休校要請の一番の“悪”とは、勉学の遅れにあったのではなく、3分の2以上の家庭が、学校の<託児所兼寺子屋機能>をおっかぶせられた<ことの顛末>にあると、ビートたけしの生霊が乗り移った“私”の目に映った次第である。
 
※一言余計なことを言ってネットが荒れる社会学者古市憲寿氏が提言している『保育園義務教育化』(小学館)も、ある意味で、以上の論拠の延長線にあるものと言える。
 
 
 

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