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テレワーカーとノンテレワーカーの格差社会の到来?

 前回では、商学部を単に卒業した、ドラッカー思想を身につけた、松下幸之助の本を読んだ、これだけで、令和の時代、起業家として大成できないし、また、大企業での幹部への昇進も望めない、そういうことを語った。
 
 バブルがはじけた1990年代までは、例えば、流通業をあげるとしよう。身だしなみがキチンとして、礼儀正しく、言葉使いも的確な百貨店マンやヨーカドー社員というものは、黙っていても出世していった。本部バイヤーが選んだ商品を、お客さまに気持ちよく、満足ゆく接客で販売していればよかったからだ。まるで、幕末の諸藩の武士が、論語などの教養を身に着け、武芸に勤しんでいれば安泰、食い扶持がもらえた気楽な世の中だったのと同じである。黒船とも言えるUNIQLOの台頭、アマゾンなどのネット通販といったサイエンスの導入・流入、つまり出現で、もはや、デパート・スーパーは幕末の武士と同様の運命を間近に覚悟しなければならなくなってもいる。アパレルのオンワード樫山も百貨店からほとんど撤退し、ZOZOTOWNと提携してゆく方針を宣言したニュースを最近耳にした方も多いであろう。
 アマゾンやUNIQLOが個人的レベルでいえば、プログラミングやデジタルスキルを有するビジネスマンと喩えてもいい。それに対して、昭和のおじさん世代、バブルを学生時代に謳歌した世代でも、いや、平成世代の40歳前後のサラリーマンも同様だが、ITなどが苦手であれば、どんなに商学部でマーケッティングをやろうと、ドラッカーを卒論にしようと、まるで、“動力のない19世紀の帆船”で、大海原にでてゆくに等しいのである。
 要は、いやな言い方だが、アナログ人間よりもデジタル人間のよほうが、時代に適応、マッチし、つまり、時代に重宝される存在になれるということでもある。皮肉な言い方をすれば、G社会、AI社会の便利な“足軽”としての“使いッ走り”となれるのである。しかし、秀吉のように足軽大将にまで上り詰めるには、彼のような人たらしの気質、つまり、人間を洞察するアナログ的感性が求められるのである。ここが、ドラッカー思想、松下経営哲学を身に着ているか否かで、人生の第二ラウンドで勝敗がつく微妙な点である。平成前半までとそれ以後では、デジタルの知性が必要条件で、アナログの感性が十分条件と逆転した文明の分岐点でもある。
 
 では、ここからが本題である。2000年以前、大雑把ながら、世の社会人は、ホワイトカラーとブルーカラーに大別されてきた。これは、サービス業はもちろん、製造業でもそうであるが、早く本社勤めをしたい、現場より管理職になりたい願望が、学歴社会の“原動力”でもあった。だから、なるべくいい大学に入り、なるべく有名な会社に就職し、なるべく同僚よりも出世したい。これが、少年・青年の学びのマグマでもあった。これまでの日本社会が就職より就社であった現実の根拠でもあった。これは、今や、官僚の世界でも崩壊しつつある。
 
 2000年代初期、小泉構造改革で、ホワイトカラーもブルーカラーも更に細分化していった。それは、正規と非正規社員の線引きである。これまでは、ホワイトカラーでもブルーカラーでも正規社員であり、それ以外はアルバイトというくくりで社会目・会社員は意識していた。しかし、現代では、同じ事務職であれ、工場現場の責任者であれ、見た目、いや、職場内では、こうした<社員としての立ち位置>が認識できない社会になってしまった。同じ学校で学んでいる日本人の友人が、金田さんや張本さんではなく、在日韓国人二世の金さんや張さんだったとう体験と似たものがある。
 つまり、30年以上前は、ホワイトカラー、ブルーカラー、アルバイトといった単純なくくりが、平成も後半ともなると、正規と非正規のホワイトカラー、正規と非正規のブルーカラー、そして、あろうことか、不思議な現象だが、正規と非正規のアルバイトといった“矛盾”する身分まで出現する。こうした、細分化は、企業の待遇面、賃金体系にも影響を与えてきたが、仕事そのものの違いや区分といったものが曖昧でもあり、よく裁判沙汰ともなってニュースなどでも聞き覚えがある方もおられよう。
 
 そして、2020年代、コロナ禍による、さらなる社会人の細分化が起きようとしている。それは、テレワーク族とノンテレワーク族の線引きである。時代の世知辛い、冷酷な、職種カーストの出現ともいっていい。デジタルを自在の使いおおせるテレワーカーとデジタルが苦手なノンテレワーカーの社会淘汰が始まったといってもいい。またそれを絶対に必要とする職種とそうでない職種の溝も現に存在している。サービス業(第三次産業)と第四次産業との線引きである。
 現代のこのコロナ禍の真っただ中で、会社の仕事がオンラインでもできる、また、できるスキルを有するテレワーク族と、会社の仕事がオンラインではできない、また、できたにしろアナログの延長で、大して効率的な仕事ができない職種、また、その本人もデジタルスキルに未熟なサラリーマン、これをノンテレワーカーと命名しよう。このように、会社そのものが、旧態依然の百貨店や量販店の如き人間が、いわば、ノンテレワーカー族ともなり、一方、アマゾンから楽天、そしてユニクロあたりの人間がテレワーカー族として認知されてゆく社会となってゆくであろう。
 
 コロナ禍でデジタルスキルを有しない会社員、そして、リモートワークに軸足を置けない会社、これは、まるで、今の中国旅行をする際、スマホを持たずに、人民元札のみで観光旅行をするような存在ともなる可能性が大なのである。あと十年もすれば、銀行のカウンター業務が消滅し、街角のATМすら公衆電話のように絶滅してゆく時代の趨勢で、あり得ない話ではないのである。
昭和のおじさん世代にとっては、“便利は人を不幸にする”ではないが、世知辛い世の中になってゆくのは必定であると考えられる。
 但し、断っておくが、教育に関しては、この時代の<進化の法則>、アナログからデジタルへの運命的移行、それはあてはまらない、当てはめてはいけない、あてはまる可能性が低い、これだけは申し上げておくことにする。それは、“文明がどんなに進歩しようとも、教育だけは、その文明の最後尾に位置していなくてはならない”からである。それは、文明の最先端には、文化などない、文明の最後尾にいればいるほど、文化度が逆に高くなってゆくものだからである。<教育=アナログ=人間>、この定理を忘れてはいけない。
この点で、夏目漱石しかり、永井荷風しかり、三島由紀夫しかり、こうした文豪の非小説作品を読んだ者なら、当然首肯する<文明と文化の幸福な共存関係の必要性>でもある。
 
 リモートワークで仕事をしている人に限り、プライベートでどれだけ文化的なものに飢えを、渇望をおぼえているか、それは、巣籠もり生活の世界中の一般庶民が、どれほど痛感しているかは、コロナ以前のアナログの密なる人間関係の世間というものがどれだけありがたい、恵まれたものであったか、そのアナログの希少性に失って初めて気づかれた方も多いであろう。

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