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感性の源泉としての藝術・文学・音楽

 感性とは、金や銀ではない。ましてや銅ですらない。それは鉄である。何にでも応用可能であり、強靭でもある。但し、唯一の欠点は、磨かねば錆びてくるという性質である。芸術とは、その感性の研磨石でもある。
 
 「平均寿命、いや、健康寿命、このためには健康管理だ!」これは、誰もが口にする言葉である。しかし、世の中年オジサンが、心のアンチエイジングに対して、どれほどのメンテナンスを施しているのか、少々疑問なるところが大いにある。
 
 山口周氏がよく主張してもいる、美術館めぐりなる鑑識眼を養う感性維持のルーティーンも今やコロナ禍で、上野の西洋美術館や国立博物館などメジャーなる施設は事前予約がなければ入館者制限とやらで、チケットを持っていても入れないありさまとなっている。困ったものである。私から言わせてもらえば、こうした超有名な美術館などは、一種、京都の名店への<一見さん来訪>の如き存在である。また、ちっとした、体調不良で、十数分の診療のために数時間も待たされる大学病院の如きものでもある。
 
 私に言わせれば、感性維持の美術館なるもの、いわば、感性の個人医・かかりつけ医・主治医の必要性が言いたい訳なのである。
 
 このコロナ禍での入場制限の上野のメジャーな美術館なんぞは、予約までして、わざわざ行きたいなどと思ってもいない輩、いわば、<かかりつけ美術館>を有する者として別にどうってこともない存在である。
 
 先日、箱根のポーラ美術館に足を運んだ。私の感性の個人医でもある。「モネとマチス~もうひとつの楽園~」という企画展をしていたが、この民間美術館は、恐らく、印象派はもちろん、絵画コレクターとしては、日本で指折り、いや、一位、二位を競う美術館ではないだろうか。
 
 今や、箱根は国際観光スポットとして、コロナ禍以前、様々な外国人がひしめきあい、うんざりするほど、自由な行動が妨げられる状況(ありさま)にあった。これは、私に言わせれば、表箱根の顔である。私が足繁く(車繁く)訪れるのは、裏箱根である。ここは、電車やバスでは不便なスポットであり、外国人は、意外に数少ない観光地域である。
 彫刻の森美術館、ガラスの彫刻美術館、ルネ・ラリック美術館、星の王子さまミュージアム、そしてポーラ美術館などがあるスポットである。つまり、裏箱根は<“フランス”がいっぱい!>なのである。そして、ポーラ美術館の裏手ともいえる、車で5分くらいの場所には、仙石が原のすすきが悠然と広がってもいる。すすきのの雄大な眺望である。
 このポーラ美術館は、年に数回ほど様々な企画展を行っているが、この化粧品会社所蔵の名品(特に印象派の絵画)が常設展をし、毎回作品を代えては来訪者の眼を楽しませてくれている、いや、私に関しては、印象派の名品で美を吸収させてもらってもいる。<眼の鍛錬>の場でもある。
 この美術館は、国立公園の中にあるため、設計に手が込んでいる。森の中、それも山の斜面に埋め込まれた形状で、観覧後、森林浴も楽しめる散策コースが整ってもいる。わかるのである。森林のマイナスイオンとはこういう空気なのか!と。何度も言わせてもらうが、建築にしろ、立地にしろ、収集品にしろ、企画展にしろ、民間美術館としての総合点{レーダーチャートに基づいた}をつければ、日本一の指折りの美術館であることは間違いない。さずが、化粧品会社としての美意識の面目躍如である。
 
 このポーラ美術館が、私の感性の個人医の一人でもある。他にも神奈川県には“数人”いる。
 
 この個人医は、コロナ禍にあっても入場制限はもちろん、事前予約すら必要ない。もともと、来訪する観光客が少ないからである。車でなければ、不便な立地あることが幸いして、コロナ禍以前でも、今現在のコロナ禍にあっても館内の状況、光景は全く同じである。
 
 今回は「モネとマチス展」であった。絵筆をとるためにジベルニーの庭を作ったモネ、陽光まばゆいニースの部屋を飾ったマチス、晩年、いや、人間の後半生を考えさせてもくれる二人である。絵描きとしては、究極の、ある意味幸福な生を貫いた二人でもある。このような、感性を維持するアート施設を各個人でもっていることが、とても大切なような気がするのである。“My Gallery”とやらである。
 
 そして、もう一点、かかりつけ医、知的感性を養う場所として、私には、文学館なる存在も無視できない一つである。その作家の原稿、文具、身の回りの品など、その文豪のリアルをも体験できる文化施設である。
 文学館として、駒場のもの、鎌倉のものと数多くあるが、やはり、神奈川近代文学館が秀逸なような気がする。港の見える丘公園から大佛次郎文学館を通り過ぎレンガ造りの霧笛橋を渡ると山下埠頭を崖下に見渡せる立地にある。芸亭(うんてい)茶房という瀟洒なカフェを横目に入館する。先日も、「大岡昇平展」を観てきた。あらためて立派な作家だと感じ入った。作家の人生を“リアル”に体験できるのが、文学館の利点でもある。
 
 文学館という施設も、<感性のかかりつけ医>の如き存在である。
 
 ここまで、美術、文学と私の興味関心に根をおく感性というものに水を与えてもくれている施設をあげてきたが、最後に音楽である。
 
 これは、神奈川県民ホールである。それもツアーでは山下達郎のライブが必ず行われる会場である。彼のライブは、DVDが発売されていないため、そのライブの凄さは遍く知れわたってもいない。しかし、もし、彼のDVDが発売されたら、恐らく多くの方は、「なんて凄いミュージシャンだったのか!」と感嘆の念とともに圧倒されるのではないかと思う。観なかった非達郎音楽愛好家は、後悔の念にとらわれることであろう。それほどのミュージシャンでもある。私はもう、大学生時代から、彼のライブには必ず足を運んでは、「真のライブとは?本物の演奏とは?歌手の力量とは?」と会場を出るたびに、感動とともに考えさせられる。自らの感性が揺さぶられる中に、知性が目を覚まし、本物を批評したくなる自分が内面に出現しているのである。彼から、本物を批評する精神を学んだとも言える。少々大袈裟でもあり、僭越ながら、畏敬する音楽評論家吉田秀和のクラッシックを聴き終えた後の言わずにおけない、その知性と感性から紡ぎだされる名文の淵源も、ジャンルは違えども認識できるのである。抽象美の象徴ともいえる音楽から、その何等かの感動を言わずにおけない衝動といったものを止められない自我といったものを。それほど山下達郎のライブは、感性を刺激し、知性をもくすぐってくるのである。ライブ後感動に耽る省察の中にいる自分を再認識させる力があるのが本物の証でもある。彼は、私にとって“様々な領域に応用可能な批評の研磨石”なのである。
 
 山下達郎がかつて「音楽で一番大切なものは?」と質問されて、「それは、力!」と応じていたことが、絵画や文学においても、言いえる真理ということを改めて気づかされる。芸術(絵画・彫刻・建築)、文学、音楽(クラッシックからポップスまで)、こうしたジャンルの本物は、人間の感性を劣化させない“力”を宿しているものである。
 
 現代のデジタル化社会に警鐘を鳴らしてもいる三輪明宏が、常に語っていることだが、「一流のモノに接しなさい、一流のヒトを知りなさい」と。クラッシック(Classic)という語の第一義は、「一流の」「第一級の」という意味であり、「傑作」でもある。何も“古典的”とか、“古い”といった意味合いではないのである。
 
 Many Beatles’ songs are now rock classics.
 

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