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学生をフォーマットとした教養について

 今や巷では、教養という語がブームらしい。東洋経済やダイヤモンドといったビジネス雑誌も年にどれだけ特集を組むことだろう。また、毎月出される新刊の新書本なども教養という言葉がキーワードなのか、非常に目に付く。つまり、令和の社会人は、教養というものに知的郷愁(ノスタルジー)を感じているのだろうか、また、それが欠落しているのだろうか、さらに、大学時代に疎遠な生活を送ってきたことへの後悔の念が湧いてくるのであろうか、そうした反動として、出版界が目をつけクローズアップしてきてもいるのであろう。
 
 大学もリベラルアーツを近年では重視し始めた。ビジネス社会では、昔は無用の長物とされた教養こそ現代を生き抜く武器と認識され始めた証左でもある。つまり、社会が、会社が、教養を役に立つツールとして認識する風潮が、そのままトップダウンした感が否めない。大学が、教養をツールと考え始めた証拠である。
 
 では、この教養というものの重要性は、古今東西を問わず高等教育にとって必須のアイテムであることは言うを待たない。教養とは、社会を生き抜く戦略(たしなみ)でもあるからだ。でも、この戦略(たしなみ)としての教養といったものは、どれほど、社会人・学生に理解され、認識されているか、それははなはだ疑問と言わざるを得ない。それは何故なのか?巷の教養書の類は、‘戦略’ばかりで、その戦術(ちえ)を語っているものが、皆無であるからだ。東大合格のハウツー本、TOEICハイスコアーのハウツー本と本質的に似たり寄ったりである。
 
 この教養という高峰の登山ルート、いわば、具体的戦術というものについて述べてみたい。
 この登坂ルートは、甲乙丙とまちまちあるが、オーソドックスに甲ルートなるものを語ってみることにする。
 まずは、知識、知恵、知性、そして叡知という言葉があるが、その“知”の格、重み、極みといった観点から語ってみたい。
 
 中学から大学生、そして、若手社員までをフォーマットにしてみよう。
 高校受験、大学受験なるものは、知識の習得が、ある意味で最優先課題であるのは当然である。お分かりのように、県立ナンバー校や一流大学に合格する受験生は、その知識をいかに定着させるかが焦眉の急である。受験は暗記とさえる所以である。地頭のある生徒、理解力のある生徒、よい先生に巡り合えた生徒は、その知識を有機的、因果的、論理的に自らの脳髄に定着できる、事実定着してもいる。受験の場で、自由自在・融通無碍に出題者の攻めに打ち勝つことができる。つまりは、その膨大な知識の手綱さばきこそ知恵ともいえるのである。
 
 「予備校や塾に依存する者は失敗し、利用する者は成功する。」(飯田康夫:駿台予備校講師)
 
 よく野村克也氏が高校生からプロ野球選手になった新人に諭す言葉である。
 
 「人間的成長なくして、技術の進歩なし」
 
 「お前らは、高校球児として、突出した技能を持っているアスリートである。もちろん、フィジカル面は天性のものを有している。しかし、これからは、それを生かすも殺すも、心次第である。だから人間的に脱皮しろ。野球は頭ですものだ。技術の拮抗する世界で、抜きんでるには、知恵が必要だ」このように野村氏は言いたいのだと思う。
 
 私は、彼の名言をいつも引用して教え子に語るのである。
 ただ、漠然と、漫然と、歴史の知識、英単語、英文法、古典などを習っても何にもならないとまでは言わないが、高校生の学校におけるお勉強の域で留まる。その後大学生や社会人となったあかつきには、忘却に彼方へ雲散霧消しているのが悲しい末路でもある。そういう輩に限って、大学受験は無機質で、暗記で、もう地獄の勉強のみであったと回顧し批判するのである。今流行りの用語を用いるなら、“知”の高大接続がなっていないのである。“知”の配電盤が、どこかしら欠陥があるということでもある。欠陥半導体でスマホやパソコンを作られたが如き目出度い学生(瑕疵製品)がわんさか市場に出回るのである。企業では、使えないし、馬鹿と烙印を押す。そういう欠陥商品と見られない手前、特に、2流の大学に限りリベラルアーツ、教養教育などと言い始めたわけでもある。因に、浪人してどこかしらの予備校のお世話になる“失敗受験生”は、大方、この知識を束ねる、御する知恵を授かる経験から、「浪人してよかった!」という、<現役生には謎めいた言葉>を吐く根拠ともなっている。
 
 つまりは、高校生なら、知識を高等教育でも生かせるアート(技術・技能)、それこそ、知恵でもあり、受験後の勝者ともある“魔法の杖”なのである。
 次にである。中高で身に着につけた知識を、受験という関門を通過する際、知恵にまで羽化して大学生になった者、こうした者のみ、自覚的精神を有するという断りを入れてのことだが、知性というものを手にすることができる。この点、理系の学生は、数学・物理・化学と大方、その延長線で学び続けなけらない宿命を背負ってもいる立場上、知識が、知恵などを介さずとも、即、準知性となるルートが敷かれてもいる。
 浅い意味での、学びという観点からの教養というものを定義させていただくと、高校時代の知識を、知恵を手段として、高等教育へ移行させて、大学というトポスで知性、いや、せめて準知性にまで孵化させた“知”が、ある意味教養と言ってもいいかと思う。
 大学というトポスでは、天才的な先輩・同輩にも出会うことであろう。また、ノーベル賞級の実績を上げておられる叡知(教授)にもインスパイアされもしよう。
 中等教育の知識を、自覚的精神に裏打ちされた知恵によって、生きた知識として高等教育に襷を渡し、キャンパスで、アルバイト先で、旅行先で、そして、読書によって知性にまで引き上げた者の証こそが、教養というものの持ち主なのである。
 
 教養とは、何も高校生が、興味関心もなく、古典書や思想書を読むことではもちろんない、ましてや、付け焼刃で、就活の嗜みとして、急遽“学び直しのお勉強”をすることでもない。さらに、社会人が、リカレント教育だの、社会人大学という文言に躍らされて、通信や夜間ビジネススクールに通って身に付くものでもない。
 
 教養とは、知というものの本質を痛烈に認識し、絶えず自身の“我”をステップアップしてやろうという自覚的精神に裏打ちされたひたむきな学びの精神の謂いでもある。
 
 灘、開成、筑駒出身のビジネスエリートに限り、社会人英会話スクールなんぞに通っている者が皆無なことは、知識と知性の<暗黙知的な因果関係>に似通ってもいる。これは、物知りと賢さとは同類ではないことは、今や東大クイズ王からタレント化したT・I氏のこれからの人生行路が証明してもくれるであろう。また、カリスマ予備校講師からタレント化してもいるO・H氏が、知識人とはなりえぬ所以がここに存する。
 生徒の前で現代文をだしに、うんちくを吐き、能書きをたれる国語教師が、作家にはなりえぬ遠因でもある。
 
 知識があれば、賢者の仮面を被ることができる。知識がなくても賢い人はいるものである。世にいう“おばあちゃんの知恵”とやらである。その‘おばおちゃん’は、物知りの仮面はかぶれない。かぶる必要もない。しかし、この知恵というものと知識を掛け合わせない限り知性というものは生まれてはこない。しかし、今の大学生は、この掛け算の大切を見失っている者が多い。学びの謙虚さを忘れ、実用主義に毒されているからである。





 

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