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筒美京平讃

 「吾は明治の児ならずや」(永井荷風)
 
 「われは昭和の児なりけり」(磯田光一)
 
 2020年とは言わず、敢えて令和2年と言わせてもらうと、今年アルチザン名作曲家筒美京平が亡くなった。
 
 彼の偉業は、旧態以前の演歌と連綿とつながる歌謡曲というものを、洋楽へとつながる和製ポップスに昇華せしめた点に尽きる。典型的な例は、昭和46年同時レコードデビューした新3人娘が、天地真理、小柳ルミ子、南沙織である。筒美京平は、この“シンシア”を名曲「17才」でスターにした。この沖縄の少女が、惜しくもすぐに引退する。この路線をもっとも正統的に継承してきたのが、竹内まりやでもある。そういえば、顔立ち、ルックス、英語力などダブって見える。彼女の楽曲は、今や世界中で“シティー・ポップ”として絶大な支持を受けている。彼女の路線は今や、夫山下達郎のプロデュースもあり、まりやの楽曲は、“シンガーソングライターの美空ひばり”こと、松任谷由実のものに負けず劣らず愛され続けてもいる。
 
 映画音楽を完成した作曲家は、「スターウォーズ」(ルーカス)「ET」「ジョーズ」(スピルバーグ)を手掛けたジョン・ウィリアムズとされているが、戦後の焼け野原の名残を感じる日本の歌謡曲から、もはや戦後ではないと感じせしめる和製ポップスの礎を築いた職人、それが筒美京平であった。
 
 昭和では阿久悠、昭和から平成では松本隆、平成後期では秋元康、さらに、山口百恵のヒットメーカー阿木燿子、「戦争知らない子供たち」「帰ってきたヨッパライ」でも有名な北山修、そして、年末亡くなられたなかにし礼など、名作詞家とのコンビは、奇跡的とも言える。レコードやCDの売り上げ枚数やオリコンチャート1位など、言わずもがなな数字である。数字的には、小室哲哉が、筒美京平に迫っているとされるが、質的には、失礼ながら足元にも及ばない。この場で宣言しよう。
 
 「僕らは“筒美京平”の子なりけり」
 

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