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コラム
鼎の軽重が問われる大学ども
今般よくワイドショーなどで議論されてきた、コロナ禍における<命か経済か>といった命題を、少々、レベルを下げて、<受験生の安全か受験生の試験か>に置き換えてみたい。
2020年度、大学入学共通テストが初めて実施されようとする数カ月前のことである。横浜国大、そして宇都宮大学、信州大学の2学部がそれぞれ二次試験中止の判断をした。
私の教え子などは、二次試験で挽回すると意気込んでいたが、横国を断念せざるをえなくなった。あのセンター試験形式の時間との闘いに弱いが記述形式を得意とする生徒である。東大受験組でも、二次に一発逆転をかけるタイプでもある。
話は逸れるが、ひと昔、ふた昔前、東大合格者の数で中高一貫校の東京の御三家といえば、開成、麻布、武蔵であった。しかし、近年東大合格数ですでに御三家から武蔵は脱落した。しかし、おおたとしまさ氏の『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社新書)や、佐藤優氏の主張なのだが、この武蔵は、センター試験に不向きな勉強をしているそうである。いわば、二次では点数を取れるが、あの時間との闘いを強いられる問題には適応できない教育を行っているらしい。この点で、受験秀才や全国に跋扈するT塾の広報官がよく口にする「二次試験対策の勉強をしていれば、センター対策(入学共通テスト)なんて不要、簡単だ、十分だ!」というアドヴァイスは少々、ひっかかる、勉学の本質と受験の戦略との峻別が認識できていないようだ。じっくり考える能力と短時間で処理できる能力の両刀使いの、上から目線に思えて仕方がない。中距離も短距離も両方得意な陸上選手の主張にも聞こえてもくる。
今年度開始された大学入学共通テストの理念<思考力・判断力・表現力を問う>などは、実態とかけ離れて、羊頭狗肉の感が否めない。標準的なる受験生に、あの量の問題で思考力だと?また、マークシートの分際で表演力だと?よくも言えたものである。判断力だと?一種の“知能テスト”の域を出るものではない!これは、英語と国語に関してであるが、私の門外漢でもある理系などの科目にも大方言えるような気がする。
さて、第一回の大学入学共通テストの“知能テスト形式”の問題で、今年度を自校の学生の選別手段とした横浜国大どもは、「受験問題は、その学校の理念的メッセージでもある」という従来から言われ続けてきた不文律・金科玉条をかなぐり捨たと批判するメディアは皆無である。非常事態宣言継続派が世の大勢を占めている証拠である。緻密なデータ分析もせず、飲食店を犠牲にしての緊急事態宣言と同じ判断の底の浅さを感じるのである。であるからして、その教え子に「そんな大学には行くな!入試を何がなんでも実施する根性もない、意志もない大学には!コロナ対策を万全して、実施する気概もない大学なんてろくでもないからだ」と助言して、「第二志望の東京理科大へ進め」と言い放った。
これは、横国どもだけではない、立教なども英語は、民間試験で英語能力を判別する、また、青山もそれに準ずるありさまである。独自路線など微塵もない、文科省への忖度でそういう方針にでたらまだしも、本心で、そういう方向性を打ち出したとしたら、学生の質の担保のいい加減さが疑われるとでも言っておこう。いや彼らの本音を指摘してやろう。「もううちぐらいの伝統的で、人気もある大学は、別に、英語くらいは、民間試験で行っても、独自で行っても従来と大差ない、黙っていても瑕疵のない高校生が入ってきてくれるだろう」「一般入試の問題に大学当局が、そんなエネルギーを割くことも、時代がら、これからは必要あるまい」この程度に大学入試を考えている、高を括っている節が大いにある。
何も生え抜きがいいというつもりは毛頭ないが、この二つの大学は、人材が払底しているのか知らないが、近年、外部から、アカデミズムとは?学生の知性や教養とは?そんなの知らぬ顔の半兵衛と、大学の存立基盤を存じ上げない人物を招聘している嫌いがなくもない。財界要望の“実学主義”に屈した大学でもある。だから、こんな<ちゃんぽん・アラカルト形式>の入試を行っていると思われる。高等教育で求められる学生の質をどうも専門学校生レベルでよしとする気風が伝わってもくる。
実は、横国や立教・青山だけではない。先日(2月13日)、東北地方では震度6強の大地震にみまわれた。それが原因で東北新幹線が一週間以上不通となると報じられるや、早稲田大学は特例措置として、受験できない(現地に来られない)生徒に大学入学共通テストで合否を決めると発表したが、そもそも早稲田志願者は、センター試験や今般の共通テストを毛嫌いし、それを回避して一般入試(一発勝負)を選んだ者がほとんどである。早稲田当局は、受験生心理というものを全く理解していない。この措置は無意味である。その“早稲田右翼”は、夜行バスだろうと、父親の車であろうと何が何でも東京の試験会場に出向くであろう。この早稲田愛の受験生を無視する措置は、まったくお役人的であり、政治家気質と同類のものである。この地震という突然の不測の事態にてっとり早く“地方のほとんどの高校生が共通テストをうけているはずである”という前提ありき、そして、早稲田当局も、再度試験問題を作成する必要がないという手抜き、自身の大学にどういう学生を入れたいのかという理念の欠如の証拠である。受験生心理への配慮、これぞ忖度といったものが微塵も感じられない。この場では、詳しくは申し上げないが、文学部を解体し、文化構想学部などといった得体のしれない学部を設置したところにこの早稲田の劣化が始まったといっても過言ではない。
昭和30年代のことである、福田恆存は、“文化の定義”という論考で、巷の文化という言葉の乱発を批判していた。文化住宅、文化包丁、文化人、文化国家、文化の日、そして文化シャッター(民間会社)など、わけもなく文化を高尚な言葉として、崇め、安易に使用する風潮に対してである。もし、福田が生きていたなら「早稲田大学もとうとう自身の学部に“文化”を使い始めたか!」とため息を漏らしていたことであろう。
早稲田の二文の廃止も同様である。時代に迎合している、いや、大学経営優先で、むしろ自身の個性を消滅させてしまった自殺行為の象徴といってもいい。これぞアカデミズムの“痩せ我慢の説”を福澤の末裔から大隈のそれに献上したいところである。早稲田の二文という早稲田愛の巣窟の廃止は、旧7帝大の格安な学生寮(※汚い駒場寮など)の廃止と同じ行為である。これも時代の流れで致し方ないのでもあろう。“痩せ我慢”の放棄である。
それに対して、慶應の文学部と法学部は、2月の福島県沖地震の受験生対策として、3月に追試を行うと発表した。こういうところで、早稲田と慶應の受験問題の認識の度合い、違いがもろにでてくる。近年よく週刊誌等で行われる「早稲田と慶應合格したらどっちに行く?」という特集で、今や3対7の割合で慶應である。平成の半ばくらい、ちょうど文化構想学部ができるくらいまでは、断然早稲田が人気があった。学生迎合の、学部の改変{文化構想学部の新設や二文の廃止、さらには、国際教養学部の‘導入=SFCの猿真似’など}、入試システムや受験方式(センター試験枠を導入したり推薦枠を増やしたりなど)を採用して、墓穴を掘っていったようである。
大学というものは、リクルートの江副浩正が功成り名を遂げて、母校の東大を訪れたときの弁でもある。「社会、会社は常に変わり続ける場、変わらなければならないものであるが、大学っていうところは、まったく変わっていないなあ!」これは当時、アカデミズの象徴でもある東大への揶揄でもあった。実は、大学というところは、保守である{※中世の伝統の遺伝子を有するという意味}。また、そうあるべきなのである。教育がそうであるように、そして、文化同様に、目に見えない程度に微調整して変化すれば、それで事足りるのである。早稲田の政経に中途半端に数学ⅠAだけ(※数ⅡBまで必要!)を取り入れる受験科目の改革もアメリカかぶれの田中愛治学長のミス舵取りと、誰も批判しない、できない。そうした世の風潮からして、世のジャーナリズムも教育に関してはどうも節穴の気が大いにある。
はっきり言おう、慶應は、時代の変化への対応として、神奈川県の遠藤という片田舎に、経済学部出身の名物教授加藤寛が、1991年にSFCを立ち上げた。三田と日吉にその“合理主義・デジタル主義”が及ばぬためでもある。いや、加藤が三田に反旗を翻したとも言われている。アメリカ系アカデミズムと欧州型アカデミズムの棲み分けでもある。一方早稲田は、都の西北に、同じキャンパスにアナログとデジタルの両方を導入した。これがそもそも間違いである。芦ノ湖や山中湖に、デジタルというブラックバスを放流するようなものである。ワカサギなどのアナログが食い尽くされ、国鱒のような運命をたどる。
これは、苅谷剛彦氏が、語ってもいたが、「オックスファードやケンブリッジの大学は、中世の大学の伝統を保守しながら、アメリカ流の実学をもうまく取り入れ、うまく両立していることが強みである」(『大学はもう死んでいる?』より)実は、欧州の大学は、保守の、従来の中世からの教養を核として、それに繭糸の如く、合理主義・実用主義をまとわりつかせながら進化してきたともいう。日本の大学の多くは、この改革の表面のみに目が行き、自身のリベラルアーツである存在基盤を専門学校のごとき存在に貶めてもきた。これは、竹内洋氏も指摘している日本の大学の大衆化のマイナスの側面でもる。しかし、大学入試問題という“厳しい関所”が、これまでなんとか、大学生の品質担保に一役買ってきた。その最後の砦が、<大学入学共通テストの地震>と<少子化という津波>で、現在崩壊せんとするありさまである。また、大学当局の入試の意義、その理念の放棄がますます学生の劣化を招来することを危惧するばかりである。
一般論としてであるが、ある方が語ってもいたが、学生はお利口さんになってきてはいるが、どんどんバカになってきてもいる。私流に端的に解釈すれば、大学の授業は欠席なし、きちんとレポート提出するが、プライベートでは一切読書もせず、自身の知的スキルアップをする学生が激減している状況のことであろう。これは、デジタルの大波に、アナログという教養精神が押し流され、絶滅している証拠でもある。この傾向は、コロナ禍でワクチンを独自開発もできず、海外のものを輸入せざるをえない日本の状況が、それを証明してもいる。衣食を完全に海外に依存し、格安のものを謳歌している日本国民は、国家の安保への自覚が希薄である。このコロナ禍で表面化してきて、ワクチン開発が、一部の識者は、国家保障の“武器”であるとまで言い放ってもいる。
2020年度、大学入学共通テストが初めて実施されようとする数カ月前のことである。横浜国大、そして宇都宮大学、信州大学の2学部がそれぞれ二次試験中止の判断をした。
私の教え子などは、二次試験で挽回すると意気込んでいたが、横国を断念せざるをえなくなった。あのセンター試験形式の時間との闘いに弱いが記述形式を得意とする生徒である。東大受験組でも、二次に一発逆転をかけるタイプでもある。
話は逸れるが、ひと昔、ふた昔前、東大合格者の数で中高一貫校の東京の御三家といえば、開成、麻布、武蔵であった。しかし、近年東大合格数ですでに御三家から武蔵は脱落した。しかし、おおたとしまさ氏の『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社新書)や、佐藤優氏の主張なのだが、この武蔵は、センター試験に不向きな勉強をしているそうである。いわば、二次では点数を取れるが、あの時間との闘いを強いられる問題には適応できない教育を行っているらしい。この点で、受験秀才や全国に跋扈するT塾の広報官がよく口にする「二次試験対策の勉強をしていれば、センター対策(入学共通テスト)なんて不要、簡単だ、十分だ!」というアドヴァイスは少々、ひっかかる、勉学の本質と受験の戦略との峻別が認識できていないようだ。じっくり考える能力と短時間で処理できる能力の両刀使いの、上から目線に思えて仕方がない。中距離も短距離も両方得意な陸上選手の主張にも聞こえてもくる。
今年度開始された大学入学共通テストの理念<思考力・判断力・表現力を問う>などは、実態とかけ離れて、羊頭狗肉の感が否めない。標準的なる受験生に、あの量の問題で思考力だと?また、マークシートの分際で表演力だと?よくも言えたものである。判断力だと?一種の“知能テスト”の域を出るものではない!これは、英語と国語に関してであるが、私の門外漢でもある理系などの科目にも大方言えるような気がする。
さて、第一回の大学入学共通テストの“知能テスト形式”の問題で、今年度を自校の学生の選別手段とした横浜国大どもは、「受験問題は、その学校の理念的メッセージでもある」という従来から言われ続けてきた不文律・金科玉条をかなぐり捨たと批判するメディアは皆無である。非常事態宣言継続派が世の大勢を占めている証拠である。緻密なデータ分析もせず、飲食店を犠牲にしての緊急事態宣言と同じ判断の底の浅さを感じるのである。であるからして、その教え子に「そんな大学には行くな!入試を何がなんでも実施する根性もない、意志もない大学には!コロナ対策を万全して、実施する気概もない大学なんてろくでもないからだ」と助言して、「第二志望の東京理科大へ進め」と言い放った。
これは、横国どもだけではない、立教なども英語は、民間試験で英語能力を判別する、また、青山もそれに準ずるありさまである。独自路線など微塵もない、文科省への忖度でそういう方針にでたらまだしも、本心で、そういう方向性を打ち出したとしたら、学生の質の担保のいい加減さが疑われるとでも言っておこう。いや彼らの本音を指摘してやろう。「もううちぐらいの伝統的で、人気もある大学は、別に、英語くらいは、民間試験で行っても、独自で行っても従来と大差ない、黙っていても瑕疵のない高校生が入ってきてくれるだろう」「一般入試の問題に大学当局が、そんなエネルギーを割くことも、時代がら、これからは必要あるまい」この程度に大学入試を考えている、高を括っている節が大いにある。
何も生え抜きがいいというつもりは毛頭ないが、この二つの大学は、人材が払底しているのか知らないが、近年、外部から、アカデミズムとは?学生の知性や教養とは?そんなの知らぬ顔の半兵衛と、大学の存立基盤を存じ上げない人物を招聘している嫌いがなくもない。財界要望の“実学主義”に屈した大学でもある。だから、こんな<ちゃんぽん・アラカルト形式>の入試を行っていると思われる。高等教育で求められる学生の質をどうも専門学校生レベルでよしとする気風が伝わってもくる。
実は、横国や立教・青山だけではない。先日(2月13日)、東北地方では震度6強の大地震にみまわれた。それが原因で東北新幹線が一週間以上不通となると報じられるや、早稲田大学は特例措置として、受験できない(現地に来られない)生徒に大学入学共通テストで合否を決めると発表したが、そもそも早稲田志願者は、センター試験や今般の共通テストを毛嫌いし、それを回避して一般入試(一発勝負)を選んだ者がほとんどである。早稲田当局は、受験生心理というものを全く理解していない。この措置は無意味である。その“早稲田右翼”は、夜行バスだろうと、父親の車であろうと何が何でも東京の試験会場に出向くであろう。この早稲田愛の受験生を無視する措置は、まったくお役人的であり、政治家気質と同類のものである。この地震という突然の不測の事態にてっとり早く“地方のほとんどの高校生が共通テストをうけているはずである”という前提ありき、そして、早稲田当局も、再度試験問題を作成する必要がないという手抜き、自身の大学にどういう学生を入れたいのかという理念の欠如の証拠である。受験生心理への配慮、これぞ忖度といったものが微塵も感じられない。この場では、詳しくは申し上げないが、文学部を解体し、文化構想学部などといった得体のしれない学部を設置したところにこの早稲田の劣化が始まったといっても過言ではない。
昭和30年代のことである、福田恆存は、“文化の定義”という論考で、巷の文化という言葉の乱発を批判していた。文化住宅、文化包丁、文化人、文化国家、文化の日、そして文化シャッター(民間会社)など、わけもなく文化を高尚な言葉として、崇め、安易に使用する風潮に対してである。もし、福田が生きていたなら「早稲田大学もとうとう自身の学部に“文化”を使い始めたか!」とため息を漏らしていたことであろう。
早稲田の二文の廃止も同様である。時代に迎合している、いや、大学経営優先で、むしろ自身の個性を消滅させてしまった自殺行為の象徴といってもいい。これぞアカデミズムの“痩せ我慢の説”を福澤の末裔から大隈のそれに献上したいところである。早稲田の二文という早稲田愛の巣窟の廃止は、旧7帝大の格安な学生寮(※汚い駒場寮など)の廃止と同じ行為である。これも時代の流れで致し方ないのでもあろう。“痩せ我慢”の放棄である。
それに対して、慶應の文学部と法学部は、2月の福島県沖地震の受験生対策として、3月に追試を行うと発表した。こういうところで、早稲田と慶應の受験問題の認識の度合い、違いがもろにでてくる。近年よく週刊誌等で行われる「早稲田と慶應合格したらどっちに行く?」という特集で、今や3対7の割合で慶應である。平成の半ばくらい、ちょうど文化構想学部ができるくらいまでは、断然早稲田が人気があった。学生迎合の、学部の改変{文化構想学部の新設や二文の廃止、さらには、国際教養学部の‘導入=SFCの猿真似’など}、入試システムや受験方式(センター試験枠を導入したり推薦枠を増やしたりなど)を採用して、墓穴を掘っていったようである。
大学というものは、リクルートの江副浩正が功成り名を遂げて、母校の東大を訪れたときの弁でもある。「社会、会社は常に変わり続ける場、変わらなければならないものであるが、大学っていうところは、まったく変わっていないなあ!」これは当時、アカデミズの象徴でもある東大への揶揄でもあった。実は、大学というところは、保守である{※中世の伝統の遺伝子を有するという意味}。また、そうあるべきなのである。教育がそうであるように、そして、文化同様に、目に見えない程度に微調整して変化すれば、それで事足りるのである。早稲田の政経に中途半端に数学ⅠAだけ(※数ⅡBまで必要!)を取り入れる受験科目の改革もアメリカかぶれの田中愛治学長のミス舵取りと、誰も批判しない、できない。そうした世の風潮からして、世のジャーナリズムも教育に関してはどうも節穴の気が大いにある。
はっきり言おう、慶應は、時代の変化への対応として、神奈川県の遠藤という片田舎に、経済学部出身の名物教授加藤寛が、1991年にSFCを立ち上げた。三田と日吉にその“合理主義・デジタル主義”が及ばぬためでもある。いや、加藤が三田に反旗を翻したとも言われている。アメリカ系アカデミズムと欧州型アカデミズムの棲み分けでもある。一方早稲田は、都の西北に、同じキャンパスにアナログとデジタルの両方を導入した。これがそもそも間違いである。芦ノ湖や山中湖に、デジタルというブラックバスを放流するようなものである。ワカサギなどのアナログが食い尽くされ、国鱒のような運命をたどる。
これは、苅谷剛彦氏が、語ってもいたが、「オックスファードやケンブリッジの大学は、中世の大学の伝統を保守しながら、アメリカ流の実学をもうまく取り入れ、うまく両立していることが強みである」(『大学はもう死んでいる?』より)実は、欧州の大学は、保守の、従来の中世からの教養を核として、それに繭糸の如く、合理主義・実用主義をまとわりつかせながら進化してきたともいう。日本の大学の多くは、この改革の表面のみに目が行き、自身のリベラルアーツである存在基盤を専門学校のごとき存在に貶めてもきた。これは、竹内洋氏も指摘している日本の大学の大衆化のマイナスの側面でもる。しかし、大学入試問題という“厳しい関所”が、これまでなんとか、大学生の品質担保に一役買ってきた。その最後の砦が、<大学入学共通テストの地震>と<少子化という津波>で、現在崩壊せんとするありさまである。また、大学当局の入試の意義、その理念の放棄がますます学生の劣化を招来することを危惧するばかりである。
一般論としてであるが、ある方が語ってもいたが、学生はお利口さんになってきてはいるが、どんどんバカになってきてもいる。私流に端的に解釈すれば、大学の授業は欠席なし、きちんとレポート提出するが、プライベートでは一切読書もせず、自身の知的スキルアップをする学生が激減している状況のことであろう。これは、デジタルの大波に、アナログという教養精神が押し流され、絶滅している証拠でもある。この傾向は、コロナ禍でワクチンを独自開発もできず、海外のものを輸入せざるをえない日本の状況が、それを証明してもいる。衣食を完全に海外に依存し、格安のものを謳歌している日本国民は、国家の安保への自覚が希薄である。このコロナ禍で表面化してきて、ワクチン開発が、一部の識者は、国家保障の“武器”であるとまで言い放ってもいる。
2021年3月15日 16:25