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大学附属校は自衛隊の存在と同じである

 教え子の中高生に、時たま聞く質問であるが、「信長・秀吉・家康の中で、一番好きな武将は?」と問うと、大方、半分近くは、信長と応じる、そして、秀吉、家康と人気が下がる。日本人の血液型の割合が、O型が5割弱、A型とB型がそれぞれ2割と拮抗する比率に似てもいる。これは、日本中の中高生にアンケートを取ってもらってもそんな大きな誤差はないと思われる。
 その教え子たちに、「では、その武将の下で働く、仕事をするとなると誰がいい?」と聞きなおす。すると、その順位は逆転するのである。家康、秀吉、信長とあいなる。 
 こうした現象は、彼らも口にするのだが、自分が憧れ、なりたい人物と、自分がその人の下で働くことになるとは別の話だと言い返す。つまり革新的で、独断速攻型、そして、恐怖心をそそり部下に仕事をさせる信長が敬遠される所以である。
 この信長志向の第一義は、日本人にはない、その独創性に起因する革命児として、日本人は離れした、そのキャラ、つまりは、胴長短足の日本人が、長身で足長の欧米人に外見を比較して劣等感を抱くその反作用としての憧れのようなもの、それを信長の性格にも投与していることは明らかである。ないものねだりというやつである。優柔不断さと変化を嫌う気質への自己否定を信長に観ているといえる。
 こうした気質は、歴史好きの小学生にも質問することだが、日本時代で一番好きな時代は?という問いかけに、「戦国時代です!」と応じる心理からも、劇的なるものを欲する心理、生温い戦後という時代への裏返しとも読めなくもない。この傾向は、ゲームのソフトでも、モンスターハンターやストリートファイターなど、戦闘・格闘技系が人気がある所以でもあろう。無為なる日常を激烈なるヴァーチャルの世界で鬱憤を晴らすのである。
 でも、そうした彼らも、「生きるには何時代?」と聞くと、意外や「江戸時代!」と応えるのである。頭では、激烈なるもの、怒涛の時代を欲しながらも、いざ自身の身の上になると急に守旧派、無難派、現状維持派に落ち着くのである。
 こうした気質というものは、よその芝生は青く見えるではないが、自身が預かり知らぬ、自身の身に影響が及ばぬ世界では、劇的なるものを求め、個人的レベルでは、事なかれ主義に流れる国民気質がどうもあるようである。これは、自衛隊の合憲違憲問題や、安保問題になると思いきって前進できぬ、現状維持でよしとする風潮に如実に表れている。
 
 では前置きはこれくらいしておこう。
 
 今年、民放で二つの受験ドラマが放映される予定である。一つは、昨年コロナ禍で中止となった日本テレビによる『2月の勝者』という、中学受験を舞台とした、原作はマンガからのものである。もう一つは、15年ほど前にTBSで放映された『ドラゴン桜』の第二段である。
 『2月の勝者』は、超進学校でもある中高一貫校を目指す家庭とその家庭教師のドラマである。そのコンセプトは、「受験の勝因は、父親の財力と母親の狂気である」という、お受験ママなら無意識に黄金律として是とする軸でドラマが展開される。一方、ドラゴン桜は、すでに内容は有名となったが、偏差値30代の高校から、その選ばれし数名の生徒が東大を目指すという筋書きのものである。
 この2つのドラマの共通点は、激烈なる、現代日本の“科挙”の戦いのプロットが魅力とされる。意外かもしれないが、高校受験のドラマは、マンガでも見当たらない。小説湊かなえの『高校入試』くらいである。地味で、リアルで、平凡なる日常を送る令和の日本人には、刺激不足だからでもあろう。ドラマ化してもパッとしなかった。ミステリードラマであることが大きな要因でもあろう。よって、両極端な、難関校受験の小学生と東大を目指す出来損ない高校生が、まるで、“戦国時代”にのし上がる勇者のように大衆の心に響いてくるわけである。
 
 しかし、こうした2つのドラマの視聴者は、当事者である小学生や高校生ではなく、その親御さんであることが想像に難くない。現代、少子化社会で、中学から大学まで淘汰の時代、昭和の時代と違い、受験の激烈さは10代の少年少女には疎遠なる世界でもあり、その親御さんが経験した、受験戦争を、回顧的に、‘自身の青春のもしも…’に擬えて、夢中になっていることがうかがえる。
 親子で、『2月の勝者』を、『ドラゴン桜』を観ているか、その親だけでリビングで観ているかのどちらかであろう。小学生が、進んで『2月の勝者』を、高校生が、好奇心で、『ドラゴン桜』を観ているご家庭は、少数ではないかと思う。親を差し置いてそういうドラマを観る子供がいれば、少々‘受験毒’に染まっている小学生、高校生であると指摘しておこう。
 
 ここで話が、受験と戦国時代とが融合してくるのである。
 
 どういうことかと言えば、小学校から高校生に至るまで、好きな武将は信長、憧れは信長と応じながらも、いざその下で働く段となると、無難な家康に落ち着く心根が、じつは、現状の受験の光景と一致するのである。本心では、麻布、海城あたりから東大、一橋を目指したい、しかし、大学受験の厳しさを考慮すると、我が子には、慶應中等部か早稲田実業の附属系に入れたい、というアンビバレントな心理を映し出してもいる。近年の附属系人気が、家康志向とダブって見えてきてしまう。ドラマは面白可笑しく観るが、実際は、その当事者はまっぴら御免であるといったご都合主義、日和見主義が、受験風景に垣間見られるのである。近年、センター試験から共通テストへ、英語民間試験の導入ごたごた、国語数学の記述問題の云々かんぬんなど入試制度の猫の眼改悪に世のご父兄は辟易している心理の証左でもある。
 ドラマでは、激烈なる受験競争を楽しみながら、自身の我が子には、無難な道に、安全なコースに進んで欲しい、冒険を避ける気質が、なれるなら信長、働くなら家康という回答の裏返しでもある。
 今や、大学進学の半数以上は、AOや指定校推薦など一発勝負組を圧倒している。これは、大学当局の経営的見地と志願者の安全志向の見事な利害の一致である。それが、少子化とグローバル化で、ますます加速されてもゆくだろう。しかし、和田秀樹氏も語っていたが、早稲田、慶應、MARCHに至るまで、大学に附属校などある国は日本だけであるそうだ。ここに、日本人の生ぬるさを好む抜け道がある。易きに流れる、戦いを好まぬ日本人資質は、平和憲法の下、自衛隊の存在を曖昧にしてきた風潮は、この受験というイニシエーションを避けようとする資質と同類のものでもある。実は、この日本独自の大学附属校システムという存在が、違憲合憲かで、その存在を先延ばしにしてきた、軍隊ではないと否定するごまかし論理の上にある自衛隊の存在と同じであると指摘する者はいないのである。

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