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比較することから不幸が始まる、これ教育改革も同じ

 よく禅僧や世の有識者が、幸福論なるハウツー本をだされているが、大方共通する点は、「不幸というものは、他者との比較が原因である」といったものに由来するようである。そうである、他者をうらやむ、あこがれる、自身に意識が向き、みじめになる、時には、やっかみや妬みの感情が生まれる、最悪は鬱病にすらなる。それが不幸のもとでもある、よって、賢者は共通の言葉を吐く、
 
 吾、唯、足るを、知る  Happiness consists in contentment.
 
 教育という制度をグローバルに考えた時、そのツールは、一部改変も必要かと思うが、その改変が、そのコンテンツにまで悪影響を及ぼすという目線を有するか否かとなると、深慮の識者は数少ない。世の教育評論家や学者が、教育の手法を時勢に応じてころころ変えることが、その根幹や精髄にまで蝕む事態をまねくことが予想できていないのである。教育における保守を任ずる私としては、常にこのことを危惧しているのである。「便利さの中にある悪」というものと共通する側面である。原発、スマホ、ペットボトルなど挙げればきりがない。谷崎潤一郎の名著『陰翳礼讃』のコンセプト「不便さの中にある美」と脈絡する側面でもある。この“悪”や“美”は、一見すると奇妙に思われるかもしれないが、知性では認識できない領域なのである。感性と良識が融合して初めて気づく<重要な不変の観念>でもある。これを抱懐しているものを賢者と呼ぶ。教育界に賢者が少ないのは、教育者、教育論者が視野の狭い専門家であることが大きな要因である。これは、私見でもあるが、大学受験予備校界に真に教え方の上手い講師は、非英語学科が多いとする私の逆説論と共通する面でもある。専門バカとやらが‘カリスマ講師’として崇められる風潮である。英語資格のデパートでもあるTハイスクールのY講師などである。
 
 ピサの学力調査に一喜一憂する文科省、大学の世界ランキングに大学経営の指標を置く学長、こうした部族は、ある意味、“不幸”なのである。彼らの標榜する目的は、あいもかわらず、グローバル化の御旗の下に、<実用英語主義とデジタル化>である。こればかりを喧伝している。ブレるということに端を発する悲劇、破滅へのルートでもある。「適応を専らとするは、進歩なき進化である」この箴言が分かっていない者が、改革、改革と声高に叫ぶのである。これを令和の進歩主義者の幻想と指摘する者は少ない。ここに私は教育の保守派を宣言する根拠がある。人間は進歩などしないものだからである。社会が進化している、その姿を人間に投影して、人間が進歩していると勘違いしているだけである。
 
 美意識とは、ある意味、自然観や芸術観に規定されるものある。それは、その人の環境とも同義である。この社会的状況といったものがデジタル化される、効率化、実益化されればされるほど、本来の人間に軸足をおく感性が蝕まれてゆくというのが、私の懸念であり、スマホ族には杞憂と映る現況でもある。

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