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教員免許更新制は教師をしょぼくれさせた原因の一つ

 7月11日の読売と毎日の一面記事に載ったニュース「教員免許更新制廃止へ」というものが、私が本ブログで数年前から批判し、前々回のコラムでも言及した、予言したことが現実となった。まさしく、<英語の民間試験導入>と<数学・国語の記述試験>の中止と笑止千万ながら滑稽ですらある。日本の政治家のもっとも悪しき気質が教育の分野で、象徴的に露見した形である。いわば、「リアリズムを忘れた理想主義」というものにとらわれた殿様政治家がいかに多いか、その証左でもある。
 
 よく自民党の政治家は、香港問題で、‘自由と人権’などをとやかく云々かんぬんするが、他人(中国)を批判して自身の足元は見えていないらしい。
 
 平成も後半になると、特に第一次、二次安倍政権の時代である、役人の自由度はますます低下してゆく。官僚が、安倍・菅コンビの奴隷とも成り下がるのである。霞が関のキャリアという役職がどんどん魅力がなくなってゆく。そうした状況に、感度の一番鋭い東大生は、国家公務員に早々と見切りをつけ、経営コンサルタント、外資系などに方向転換している態度こそ、<就活のカナリヤ>と、政府はどうして認識できないのだろうか。親分肌の麻生太郎と財務省の思考停止の幹部だけが、まるで戦前の軍部の如く、佐川や赤木のような‘使い捨て’公務員が、自身のために玉砕してくれればいいくらいにしか考えてもない節がある。文科省とて同様である。加計問題で、安倍政権に盾突いた前川喜平を首にした、こうした財務省や文科省のどろどろの光景を見て、どうして優秀な学生が、トカゲのしっぽ斬りにさえされる官僚になどなるか、当然そう考えるのが自然であろう。習近平に盾突いたジャック・マーの‘挫折’を観て、ベンチャーを志す優秀な人民は、経済を通して国家に尽くすのではなく、中国共産党、いわば習近平という独裁者に忠誠を尽くすのかと、鼻白んだのではなかろうか。日本とて同じである。日本国に尽くすといいながら、実は、自民党に尽くす、安倍政権の忠犬ポチ公になれ下がるということに学生は気づいてもいる。
 
 以下の引用は、灘校の英語教諭である木村達哉先生をゲストに迎えての、カリスマ現代文講師林修氏の文庫本の巻末に掲載されたスペシャル対談「勉強する目的は何か」の一節です。
 
木村 この「補習ばっかり問題」は、さらに大きな問題を生んでいるんです。先生に余裕がなくなってしまうんです。たとえば、数学の先生だけどスペイン語がメッチャしゃべれるとか、英語の先生でフランス語がメッチャしゃべれるとか、あるいはこの先生の専門とは全然違うけど、あの分野の大家やなとか。そういう人が生徒をインスパイアしてゆくというのが、あんまりなくなってきた感じがして。
 なくなりましたよね。それは「午後3時過ぎたら、俺たちは生徒のことなんか知らないよ」というスタンスで行かないと、そういう教師は出てこないですよね。
木村 出てこない。
 僕が通った高校は、午後3時過ぎると職員室は誰もいなくなっちゃってました。生徒よりも早く先生が帰りたがる学校でしたから(笑)。
木村 僕もこうして、外で本書いたりいろいろさせてもらったり、それを生徒らは見て、あんなふうになりたいなとか思ってくれたらええかなと思ったりですね。
 やっぱりそういうゆとりがあると、生徒から見て楽しそうにやっているように見えるんですよ。授業をちゃんとやりつつ、何かよくわからない勉強もちゃんとやっている。そういうのがかっこよく見えて、俺たちもああいうふうになろうかなと思わせることが大事なんですよね。ところが補習の連続とかで余裕をなくすと、木村先生がおっしゃったように先生が疲れきってしまってしょぼくれる。そうなると、自分たちが勉強できようになったときの状態があれかあ、と生徒は思ってしまいます。それではモチベーションが上がるわけがない。そうやって悪循環に陥っちゃってるんです。
                               『受験必要論』(林修)集英社文庫より
 
 以上の対談からはっきりしていることだが、現在の官僚は勿論のこと、現場の教員という役職に一番魅力薄にしている根本原因は、自由度の低さである。現場裁量権のなさである。文科省への忖度の強さである。さらに、経済的報酬の薄さ・低さでもある。
 婦人公論の編集長も務めたジャーナリスト三木哲夫氏が、かつて語っていた次のような内容が、まさしく、官僚や教員にも該当するのではなかろか。
 
「よく新人社員や若手の社員が、すぐ辞めてしまう一番の原因は、上司の働く姿を見てなのです。自身の上司が、会社の悪口をいつも口にしている職場、仕事につねに愚痴ばかりいっている部署、こうした幸せに働いていない上司の後ろ姿を見て、その20代の社員は、その会社に絶望、見切りをつけて辞めてしまうのです。その会社で、自身の上司が楽しく、愉快に働いている姿を見て、僕も、私も、といったように勤続の長短を決めている、実は、給与の多い少ない、仕事のきつさ、出世のあるなし、こんな要素は、2番手、3番手の順位の要因なのです」
 
 この三木氏の文脈で、学生の官僚離れ、教員志望者の激減を考える目線が、政府にはないのである。
 これは、私の教育実習での話である。2週間弱の母校での教育実習の最終授業で、少々長めのスピーチをした。この教育実習の私の本音をズバリ吐露した。すると、母校の後輩の反応が嵐のような拍手で終わった。やはり、本音で生徒に向き合うとその真意が伝わるものらしい。
 
 そもそも、英語教員志望など私には、ありません。自身のフランス語、フランス文学でどうにも食てゆくのが困難になった時の保険として、教員免許でもとっておけば、いざという時、食いっぱぐれはないだろうと思い、一応教員免許でもとっておこうという心づもりで、この教育実習に来たわけです。現在、塾などで、英語をアルバイトで教えて、それは糊口をしのぐため、食ってゆくためのもの、そして、フランス語は、趣味かな、いや、淡い将来の仕事へのステップとして勉強しているというのが本音です、これが今の私の日常の本音の姿です。でも、英語を高校の時にきちっとやったからフランス語がそこそこできるようになれた。だから、俺の英語の教え方、大学院でフランス語やっているわりには、下手じゃなかっただろう?むしろ上手かっただろう?((笑:私から生徒へ教室内に響く))、人生とは、できれば二刀流でゆく、それは、自身の能力をひけらかす、誇示する以上に、好きなことを複数持つもんなんだよ。それは自身の人生上の保険でもあるんだ!
 
 以上がスピーチの最も盛り上がり、感触がよかった箇所であり、私の本音が、共感を持って彼らに伝わった場面でもある。ここに、手間味噌ではないが、林修先生と木村達也先生の対談の<言いたいツボ>が凝縮されてもいよう。
 
 70年代は、「飛び出せ青春」「われら青春」の学園ドラマがヒットした。テーマは、問題児の生徒と熱くぶつかり合う教師像が理想とされた。村野武範や中村雅俊が憧れの教師像でもあった。
 80年代の「三年B組金八先生」に象徴される、自己犠牲をしてまで生徒を下から支え、学習指導より生活指導に軸足を置いた先生が鏡とされた。「仙八先生」「新八先生」もその路線である。武田鉄矢が現場教師にある意味、“理想的教師”として映った時代である。
 90年代以降は、「GTO」(ドロップアウト教師が生活指導するテーマ⇒学園改革)や「ドラゴン桜」(アウトロー教師が進路指導するテーマ⇒学園改革)のように、生徒と距離を置きながら、生徒と教師が、別々の目的で、同方向を向くベクトルで、自身の教えるという生業以外のジャンルの後ろ姿で示す、諭す‘先生’が理想とされてもいた。ある意味、70年代の熱さが‘形’を変えて登場する。
 
 どこかしらで聞き覚えのある会話である。
 
 「先生の夢は何ですか?」
 「先生の夢は、君たちが立派な大人になることかな?!君たちが、志望する大学(一流大学)に行けることかな?!」
 「超ダッセー!先生には、自分がこうなりたいとか、これがやりたいっていうものがないんけ?超つまんねえ!だから教師って魅力ネー仕事なんだよな~!」
 
 ‘ゆとり教育’が昔ありましたが、“ゆとり教育”が今ほど教員に求められている時代もない。つまり、官僚から学校の教員に自由がない自由の裁量がない。それなのに、時代は非正規社員、フリーランス、副業(複業)、さらにノマド的生き方、また、GAFAの社員にみられる自由な職場、自由な身なり、遊びの奨励。教師業ほどこの時代の趨勢に逆行している職場はないと言っても過言ではない。両手両足の4か所のくびき・鎖の左手の鎖が外されたに過ぎないのが今般の教員免許更新制度廃止である。

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