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生徒を見れば学校が分かる?いや、教科書を見れば...。

 子供を見れば、親がわかると言われますが、現今、この傾向はますます顕著になりつつあります。子は親の鏡という格言のことです。では、この言葉を、社会レベルに広げて考えてみることは余りなされてはいないようです。確からしさの高い、この人生上の“定理”は、学校と生徒の間に適用してみると、現代の勉強・進学レベルの文脈で、面白い実相が浮かび上がってくるものです。
 生徒を見れば、学校がわかる。これは、生徒指導の側面なら、明々白々です。電車の中、路上での行動、学生服でありながら、薄化粧や、口紅をしている女子生徒なら、だいたい、その学校の大学進学率というものが、見えてきます。男子生徒なら、その学ランにしろ、ブレザーにしろ、その身だしなみに、その学校の、やはり、勉強熱の高低が、伝わってもきます。実は、こうした文脈で、学校と生徒の関係を語りたいわけではないのです。こうしたものなら、麻布や灘、筑駒、女子学院などの私服の学校ではどうなのかと、反論もされましょう。私が言いたいのは、そうした生活指導レベルではなく、学力・勉学・進学レベルでの話であります。勿論、科目を英語に絞りこれからお話してみたいと思います。
 では、生徒は学校の鏡であるという謂いに関してですが、それを、もっと厳密に言い換えると、《学校⇒教師⇒生徒⇒教科書》、この関係性に言及しなければ、その学校の学習上の教育問題には、深く踏み込めないということでもあるのです。生徒は、その教科書に意識が向く、教師は、担当の生徒達に意識が向く、学校(校長や理事長など)は、各科目の教師に意識が向く。つまり、教科書(教材やプリントも含む)は、学校の鏡でもあるという“定理”に行き着くのです。これを認識している学校経営者また管理職の人々は、特に、私立に限定させていただくならば、一般に‘よいとされている’テキスト、即ち、プログレスやトレジャー、また、バードランドなどを採用しているのです。これは、富裕層の親御さんが、我が子に“高級ブランド服”を着せているのと同じ心根でもある。また、我が子の気質や資質、また、能力も考慮せず、中学受験で、進学塾のブランドでもあるサピックスや日能研に通わせていれば安心、あとはほったらかしで、自宅でどれほど自己学習をしているか、また、その塾のカリキュラムをどれほど我が子が消化しているのかお構いなしに、6年生まで、効果薄の数年間を費やす親子像とも相似関係を示してもいるのです。
 世の教育熱心な親御さんなら、ご存じかと思われますが、私立の中高一貫校で採用されているテキスト(非文科省検定教科書)、特に中学の段階においては、その御三家は、このプログレス、トレジャー、バードランド、特に前者二つが突出しています。この現状を知ってもいる中学受験志望の親御さんが、「あそこは、プログレスを使っているので、英語は大丈夫よ」とか「あそこはトレジャーを使っていないから駄目よ」と、まあ失礼ながら、単細胞的思考のご父兄を見越して、その学校担当者は、自身の学校の生徒のレベルも考慮せず、闇雲に、一斉に以上の3種類を、学校の‘魅力的イアイテム’程度で採用している私立の中高一貫校が実に多いかにお気づきの親御さんや塾関係者は多いと思われます。
 いわば、単純な親御さんが、我が子を、名の知れた‘ブランド’進学塾にかよわせれば、その父母が志望する私立の中高一貫校に合格すると考えている心象風景が、実は、短絡的な学校幹部が、‘ブランド’教科書{プログレスやトレジャーなど}を生徒と教師に、与えておきさえすれば、英語力が伸びるなどと考えている妄想とまったく同じものであると指摘しておきたいのです。こうした、心根は、何も、私立に限ったことではなく、公立の中学校や高校にも該当する真実でもある。単純とか短絡的などといった批判的な‘枕詞’を敢えて使用しかたといえば、表参道、渋谷で超流行っている、売れている服を、同じチェーン店の、地方の支店で発注し、店頭に並べても売れないという至って当然の“マーケティングの鉄則”が、分かっていないその店長と似た姿が透けて見えるのです。
 その家庭には、その家庭なりの慣習があり、その家の子供は、それ独自の生活習慣があるように、そして、そうした環境の中で育つ子供は、十人十色でもある事実を認識しておく必要があるのです。我が子、三男一女を東大理科三類に合格させた佐藤ママこと佐藤亮子氏の手法を真似ても、彼女がどれほど自身の私生活を我が子に捧げたか、その内実を斟酌しなければ、モデルの服に憧れて、自身もそれを購入し、友人から「あんた、それ全然似合わない!」と酷評されるのが落ちである体験と同じものを味わう羽目になる。また、父親が大手企業の副社長を務め、祖父が日本画家でもあり、その祖父の日本文学大全集を小学生で読破した林修氏の国語経験から得た、読解手法を、そのまま、MARCHレベルの現代文に苦闘している高校生に適用しても、カチカチ山の泥船現象を試験会場で目の当たりにすることにも相成るのです。これも、我が生徒達によく言うことばですが、「ボルトの手法を真似てもボルトにはなれない」(為末大)の箴言が当てはまる事実です。
 では、本題に戻るとします。その学校の教科書が、どれほど、自身の学校の生徒の身の丈に合ったものか、また、その教科書を、自身の学校の教師が、どのように教えているのか、それを熟知していない学校上層部の方々があまりに多すぎというのが、弊塾の生徒を概観して実感されてくる事実です。企業でいう所の、現場を知らない本社幹部のメンタルと同じものです。大手の予備校講師は、数十人から百人近くの生徒を一方通行的に講義します、そして、分からない生徒は、その後、講師室に、そのテキストの不明な箇所を質問しに来ます。そのついでに、「先生、これ学校の教科書なんですけど、ここの英文授業で聞き逃してしまい、友人に聞いてもわからないんで、教えてくれますか?」と聞こうものなら、「お前な~!俺は家庭教師じゃないんだぞ!それに、この予備校のテキストなら授業料に含まれているし、俺の授業の対象ともなっているんで、教えてやるけど、学校のわからないところまで俺に聞いてくるなよな!ほら、あとの生徒が並んで待っているじゃないか!」と不満げに、時には、怒って、拒否すらする講師まで、実はいます。そうです、ほとんどの、一方通行的に大勢を相手にしている塾・予備校は、その独自のテキストを教えることに専念すればいいのです。学校の教科書の不明な点までは、義務を負ってはいません。実は、ここにこそ、大手の塾・予備校の授業の死角・盲点とやらがあるのです。
 百マス計算で名を馳せた、陰山英男氏の「勉強には、家庭環境が大切です。しっかり睡眠時間を子供に与えて、早寝早起きを習慣化させてください。そして、必ず朝食は食べさせて学校に送り出してください」の弁ではありませんが、こういうことが、やはり、どんなにいい予備校や塾に通っていても、やはり、1週間の5~6日の日常を過ごす学校の授業が如何に大切になってもくる<蔭山氏の小学校の授業:その子の家庭環境=予備校・塾の授業:その生徒の学校の授業>の比の関係を指摘しておきたいと思います。と申しますのも、弊塾で、私が教えていて、AさんとBさんが、どう見ても、Bさんのほうが、復習もし、私の伝えたい内容、分かって欲しい本質を自分のものにしている。授業の最中でも、実力がついてきてはいるとはっきり手に取るようにわかる。しかし、AさんとBさんが同じ第一志望のK大学を受験して、Bさんが落ち、Aさんが合格という理解できない現実を、少なからず経験していることから、実は、そのAさんの学校での授業とBさんの学校での授業の‘質’また‘量’と言った次元の差といった原因に思い当たったのです。
 これは、20年近く前、週刊朝日に載っていた超進学校K学園の教頭か英語科の主任の先生だったと思います。今でも記憶に残っているフレーズです。
 
 「どんな進学校でも、その学校のその科目(英語)の教員の、せいぜい2~3割くらいしか、真に優秀な人いません。本校でも、同様です」
 
 ああ、そうなのか、K学園ですら、そうなのか、じゃあ、普通の進学校の優秀な教員の割合なんて、1~2割程度だなあ~!と実感したものでした。これは、生物学的にむべなるかなと、その後、働き蟻の実態というものを知った時、納得いったものです。
 1000匹の蟻の集団でも、真に働いている蟻は、2割、中途半端な蟻は6割、全く働かない蟻は2割、これを‘働き蟻の法則’と言うのだそうです。この働き蟻の200匹だけを、それぞれ別の5か所から集めてきて、真に働き蟻の1000匹の集団を期待して作ったところ、本当だったら、1000匹の‘エリート働き蟻集団’となるかと思いきや、その集団でさえ、2割:6割:2割の、普通の集団に下落してしまったという事が、学校の優秀な教員にも該当するものだと、学校という教育の場でも深く認識したものです。
 そうなのです。この2割の優秀な英語教師に、プログレスやトレジャーを教えられれば、英語嫌いは勿論、好きという程ではないにしろ、英語は苦手にはならないクラスの母集団を作り上げることも可能でしょうが、そうではない8割の英語教師に、特に、2割の‘働かない蟻’の教師に習った生徒はたまったものではないのです。中途半端な6割の教師でも、そのプログレスやトレジャーの高水準と教え子の能力の距離感を把握している教員は、生徒達を‘英語はまし、またプチ得意’程度にまで底上げできる教師と言えます。大方は、教え子の能力も考慮しないまま、闇雲に、その教材を教える教師が、失格の烙印を押してもいい部類なのです。実に、この部類がどれほど多いことか、私の塾の教え子に、どういう手法で、プログレス、トレジャーを教えているのが、よく聞きただすのです。すると、如何に雑に、一方通行的に、授業展開しているのかが垣間見えてくるのです。ですから、プログレスやトレジャーなどを対象にした、トリプレット{※プログレスやトレジャーなどに特科した個別指導を売りにしているチェーン塾}などの塾が流行るのです。
 では、ここでもう一点、非常に大切なことを申し上げます。それは、優秀とか、凡庸とかといった次元ではなく、その教科書と教師の関係性です。それは、具体的に言えば、プログレスというその教科書、また、筆者でもあるフリン神父のコンセプト、また、理念という教材作成上の、英語テキストへの‘想像力’といったものの大切さです。
 例えば、あるシェークスピア研究者で、劇作家でもあった人の「脚本(戯曲)とは、声に出して初めて完結する」という言葉があります。それは、その文字に書かれた書物(プログレス)の段階では未完成品だということです。つまり、その戯曲は、演出家(教師)と役者(生徒)によって初めて息が吹き込まれるということでもある。その戯曲を、その時代背景でどうアレンジするか、また、時には、数百年前のその作品が生まれた時代に忠実に演出するか、様々でありましょう。なぜだか、このプログレスを使用している、私の教え子たちの学校(教師)は、どうも、このプログレスを与えて各自に黙読させているに過ぎない、また、その作者の真意をくみ取らない、また、そのプログレスのレベルと生徒の知的距離感がつかめていない鈍感な教師が多いように思われるのです。全く絵画に興味のない生徒達を、闇雲に名画が並ぶ美術館に連れて行き、その後、その名画についてレポートを書かせる類の授業を、このプログレスの授業でも行っていると言えるのです。優れた美術教師なら、その美術展に足を運ぶ前に、事前に、印象派とは?とか、ルーベンスとは?などと、おもしろおかしく解説して、一般に上野の展覧会に足を運ばせるものです。いや、そんな知識や前情報など不要!頭がまっさらな状態で、絵画に接するべき論も当然ありましょう。それこそ、現場を知らない理想主義者というものです。その手法は、東大に数十人の合格者を出す進学校なら、まあ良しとしましょう。大方の生徒、80%以上は、理解や興味がない、それゆえ、絵画なんて?とぶすっとした表情で絵画展に臨んでも、絵画の良さに心を閉じて、鑑賞などできないものです。ちょうど、中学高校生の京都の就学旅行と、大学生になって、また社会人になって再度京都を訪れた時の感動や歴史的実感などを比べれば、天と地のひらきがあるのと同様であります。
 このプログレス、またトレジャーにしても同様ですが、‘文法や構文、またリード(読解の読み物)’の質、これが、名画に該当するのです。勿論、独力で、その名画を鑑賞できる地頭(IQ)の高い生徒もいましょう。しかし、その名画(プログレスやトレジャー)の良さというものが、分からない生徒が大勢であります。更に問題なのは、この良さを認識しないまま、英語主任の某先生が採用したものだから、学校(理事長か校長などの上層部)が決定した教材だからと、しぶしぶ、仕方なくそのテキストを使って生徒に英語を教えている先生は、たとえ、英語そのものが‘超お出来きになる優秀な英語教師’であっても、教え子は伸びないと断言できるのです。天才肌の長嶋監督から野球を習うより、秀才肌(がり勉型?)の野村監督から習うほうが、個人レベルではなく、チームレベルで強いチームができるという“アスリートとコーチの関係”と同じことが言えるのです。
 このプログレスだけでなく、様々な英語教材というものがありますが、いくらどんなにいい教材を使用しようとも、その教材と生徒の距離感に鈍感な教師は、私に言わせれば、失格なのです。お父様が、ネットなりで得た知識で、「これが、今一番いい評判の数学の問題集だ、夏休みにやれ!とか「中学生の頃、お父さんも使っていて、いい参考書だぞ、これを使いなさい!」といったアドヴァイスは、進学校の関係者が、ブランドの‘プログレス’や‘トレジャー’を採用して、現場英語教師にホッぽり投げ、その教師もその作者・編集者の理念や真意といった本質など考慮せず、授業展開しているのと、本質的に同じなのです。そうした多くの学校から、短絡的教育姿勢が見えてくるのです。そのような学校に通われていたBさんが、K大学に落ちた、それが、深淵なる原因ではないかと疑いたくなるのです。(つづく)

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