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共通テストは"学際性"を求める試験!それが果たして正解?

 学際性という言葉がある。私的には、慶應が藤沢にSFCを設立したあたりから、意識、若干、高等教育の場で認識してきたような言葉である。
 この学際性とは、国際性と同類の概念でもあり、様々の学問を複数、複合的に研究し、新たなジャンルを開拓してゆく理念でもある。学問の際をつなぐ、リンクさせる、学問の総合性、いわば垣根を越えた研究ともいっていい。教え子に、現代文や英語の読解の際に、具体的に引用するものとしてバイオテクノロジーや生命倫理、地政学など、複合科学を分解して、説明したりする。慶應のSFCも設立の理念から、総合政策学部や環境情報学部など、その当時の親御さんや高校生からは、「それにしても何をやる学部なんだ?」「慶應だから何かいいことを教えてもくれるんじゃないか?」「村井純というミスターインターネットとも呼ばれる情報化社会の先達がいる!」といた風評から、SNS社会の黎明期、偏差値がグぐんぐんと上がっても行き、SFCバブル現象として、その学部名称が、日本中の諸大学に波及したことは、近年の秋田国際教養大学の真似っこ学部として、やたら教養やリベラルアーツといった屋号を用いる私立大学にも似たような現象が当てはまる。
 SFCの学部名、そしてAO入試の走り、これが平成の初め、日本中の私立大学に影響を及ぼしたことは、令和の時代、記憶からうすれかけてもいる。
 このSFCの中心理念の学際性といった、21世紀に求められる知の複合化は、手前味噌ながら、仏文科という、フランス文学を学ぶ領域に、本気で留まった、性根を据えてハマった者ならば、当然の心構えともいえよう。メディアで活躍されている知性として、鹿島茂、内田樹、國分功一郎、千葉雅也など枚挙にいとまないほどである。彼らは、フランス語を起点として、フランス文学、哲学から、アメーバのように様々に知の触手をのばし、様々な考察もされている。解剖学者の養老孟司や脳科学者の茂木健一郎なども自然科学から、人文・社会科学の領域に鋭い見解をもっている姿勢も、これ学際性の知があってのことである。いわば、学際性とは、一般教養の謂いでもあり、知の総合性でもある。
 アカデミズム、いわば、大学以上の学びの分野で、この学際性が必要不可欠であることは、もう、この巨大な情報化社会、そして空恐ろしいAI社会においては、知的であることの心的身だしなみとして、一般社会人には、意識され始めた事例として、最近では、山口周や落合陽一などの書籍がバカ売れしている証左ともいえよう。この二人の本の読者層より、知の階層が一段下の人たちは、堀江貴文や成毛眞などの本を齧ったりもするようである。こうした4氏の書籍を読む一般会社員は、社会人となり、学際性に、意識、無意識を問わず気づいた輩でもある。つまり、一般教養とやらに近い知の必要性に気づいた連中なのである。
 
 さて、この高等教育の場で必須の理念でもある学際性というものが、中等教育の場で、この令和に入って求められようとしている端緒が、今般の大学入試改革の象徴、大学入学共通テストの導入、そして、その問題の質に如実に表れている。但し、そんな深みもない総合性でもあるが……。
 
 数学にも国語的センス、英語にも数学(算数)的能力、国語にも中学生程度の理科や社会の知識、将来的には、日本史と世界史の融合問題や地理と政経の複合問題も登場することは、恐らく自明の理ともいえそうな流れである。
 畢竟、私なんぞから言わせてもらえば、『源氏物語』のある場面(文章)を読み、これを英作文せよ的な問題を出せば、古文の読解能力と英作文力を一隻二鳥で測れるとも思われる。実際に、私は、弊塾で、古文を教えながら、よく英語を用いて説明すると教え子は、「超わかりやすい!」と現に受けがいい、つまり分かりやすいというのだ、これぞ学際性の利点でもある。古文は、現代日本語よりも、英語という外国語に近いと生徒に気づかせる。すると、本気で、面白く古典文法とやらの本質に気づくのである。これは余談でもある。
 
 しかし、この高校の段階での、学際性というものを基底に、未成年、それも将来の目標、そして夢などうつろな精神年齢の彼らに、英数国理社という従来の区分けされた科目を、大学受験で必要だからと、垣根を越えて、また、壁を取っ払い、教えこむことが、教育上果たして正解と言えるのだろうか?
 
 日本中にあまたの料理学校というものが存在する。辻料理専門学校や服部栄養専門学校などを挙げるとしよう。そこで将来の料理人ともなる人は、和洋中といった、その進むべきコースをまず自覚選択しているはずである。初めから、日本料理を取り入れたフレンチ、洋食を加味した寿司、中華をアレンジした和食、こうした試みは、恐らく料理学校の卒業試験ではOKやもしれないが、数年の学びの場では、“禁止”されてもいることだろう。応用以前に基礎の大切さを叩き込むことが先決であるからだ。その和洋中を極めて、その後、営業、ビジネスの社会で、オリジナリティを出し、その料理のパイオニアとなるのが正道というものである。初めから、独自のどこにもない料理を創作しよう、そう考えてもいる人は、栗原はるみ・平野レミのような家庭料理のカリスマを目指すべきある。ネットなどで活躍されている料理研究家は、我流にその道を広げてもきた、ある意味、<独学の才人>でもある。
 フジテレビの人気番組に『料理の鉄人』というものが一世を風靡した時代があった。そこに登場するのは、和洋中の料理の達人たちである。その舞台に、料理学校の生徒が出演しても、また、ちょっとした俳優、例えば、料理も売りの梅宮辰夫などが登場しても、道場、酒井、陳といったその道の天才シェフには足元にも及ばなかったはずである。それは、経験以前の問題として語っているまでである。料理の根底の料理のいろはがあるか否かの問題でもある。
 藝大に志望する学生が、「俺はピカソのような絵が描ける」とか「私はゴッホ流の絵を描いてみせる」とか主張しても、絶対に神がかった、素人には決し描けないデッサン力がなければ合格できない。初めから芸術の道に進むには、オリジナリティ以前の基礎というものが料理人同様必須のルートであるはずである。これは、脇道に逸れるが、中等教育における“正統で、まっとうな学校英語(文法や構文の重視)”にも言えることである。日本画科に進んだ画学生が、油彩を取り入れたり、木彫科に進んだ美大生が、ブロンズや塑像の手法を取り入れて作品制作するように、芸術系であれ、料理系であり、その基礎が前段階で求められのは、一般の文系理系を問わず同じであるはずだ。それを、今や教育の悪しき時流なのか、高等教育の前倒しなのか、英数国理社の“学際性”を求める風潮に異議を申し立てたい。
 十八代目中村勘三郎か立川談志だったか、「型があるから型破り。型がなければ、それは形無し。初めに型のない者には、型破りはできない」とも語っていた。能の稽古の心得でもある<守破離>、これも、“守”が基本、“型”でもあり、中等教育の英数国理社といった区分けされた教科の言い換えでもある。これは、イメージの悪い日本の学校英語教育にも当てはまる。初めから、使える英語だの実用英語だのに基準を合わせて作られてもきた、後期センター試験から共通テストにいたるまで、高校生に、デッサン力なんかなくてもいい、印象派や抽象絵画を自身の信じる仕方で描きなさいと高校3年の美大志望者に説いているようなものである。
 
 オリジナリティとは、学びの場が、高等教育に移行し、自身の両足で立って学ぶという自覚が芽生えて初めて、顔をもたげてもくる気質である。これは、自身の個性、自身の適正など思春期を脱したばかりの青臭い未成年に自覚されない。学びにおける学際性から派生するオリジナリティなどが高校生にはその真実がわからないのは、子供にとってのビールやウィスキーの風味が苦い・薬臭いと感じられのと同じことである。学際性とは、学校や親から、物質的な自立をして、それも精神も自律した時点で、高等教育の場で確立すべき学びの理念的スタイルでもある。独創性を発展途上の高校生に求めるような共通テストは、理念倒れともなる。共通テストの試みは、成人年齢を、日本で最近18歳に引き下げた政策同様に、無理、不自然、そして、非合理であるということに、誰も気づいていない。
                  

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