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共通テストを時間無制限にしたら皆8割以上ゲット!?

 教育実践家藤原和博氏が、日ごろ主張していることだが、これからは<情報処理能力>から<情報編集能力>の時代に移行するといったこと、その点で、令和の大学入学共通テストの路線は、まさに逆行しているといえる。
 <情報処理能力>とは、一言で、単時間で正解を出す能力である。この点で、問題の性質がどうであれ、マークシートという形式では、それが正解とせざるをえず、これは共通一次からセンター試験もまた同類であったといえる。だから、国公立は、記述形式の二次試験を課すことこが、ある意味、良心的その大学のレゾンデートル(存在理由)でもあった。その<情報処理能力>を試す試験が、平成が深まるにつれて、私大へも波及してゆく。私大が、公的試験の権威に屈した証拠である。また、独自で試験問題作成という経済的負担の軽減にもなるし、国立大くずれの準秀才を囲いこむこともできる姑息な魂胆も働いたのであろう。平成末期には、私大のほとんどは、センター試験枠を大いに拡張させもしてきた。これは、もうお忘れの方も多いやもしれないが、平成のある時期、大手予備校、特に河合塾に大学入試問題を作成する委託騒動があったことがあった。そうした自校で問題を作成できぬ大学に限り、大方、手っ取り早いセンター試験の軍門に下っては、大宅壮一流にいう、“駅弁大学”になれ下がってもいった。私に言わせえれば、センター試験、英検などを利用する大学に限り、“駅弁大学=X流大学?”と言わせてもらうとしよう。
 
 一方、<情報編集能力>とは、課題・問題を発見し、‘よりベターな’解決方法を見出す能力であるともいう。また、従来の知識や情報から、旧来にはない、また誰しも想像だにしない、新たなモノ・コトを生みだす創造力のことを指す。この能力は、時間外の、時間という次元を超えた、また、時間という制約を超えて涵養されるのはもちろんだが、その本質は、短期間で評価や判断できるものではない。発明や発見という僥倖が、時間や生活という日ごろの時間軸とはかけ離れた“セレンディピティ”に存する点で通底しているものがある。遊びや無駄の効用ともいっていい。学びというものが、死ぬまで続くといった意味でも、「青春とは、夢や希望がなくなった時点で終わる」といった意味でも、<情報編集能力>は、時間から超然とした、学生のみならず社会人から老人にいたるまで、学びの配電盤として長期にわたりメンテナンスするスキルでもある。
 
 さて、ここで共通テストの英語と京大二次試験のそれとを比較してみよう。
 
 共通テストは言わずとしれた、センター試験以来、ある意味時間を考慮にいれざるをえない、時間配分が要諦ともなる、時間の計画性が勝敗の半分以上を占める試験である。これは、灘や開成の秀才以外の、地方の県立高校の準秀才以下受験生をフォーマットにしての話である。この標準的凡庸なる秀才は、この共通テストであれ、センター試験であれ、時間無制限で解かせたならば、恐らく8割後半から9割後半はゲットできるものと思われる。AIの如く、短時間で情報をどう処理するのか、その高校生のAI度を試している試験、それが、この共通テストの正体とも言える。何度も言うが、センター試験から共通テストに移行するにつれて、どうも情報処理能力の度合いを試しているようにしか感じられない。大学試験問題の、ゲーム化である。百人一首のかるた取りゲームやトランプの神経衰弱ゲームと同類の能力を試しているとしか思えない。
どうしたら、短時間で、なるべく6割に至らない問題をつくるか、それにのみ汲々として研究している大学入試センターの幹部に思えて仕方がない。これは、現場の高校生の生の声を代弁してでもある。おつむのいい学校教師、IQのお高い予備校講師、したり顔の受験産業関係者、彼は、「よくできている」とか「考えぬかれている」と、さらにもっと研究を重ねて毎年毎年、受験クイズ問題の刷新のエールを送る。
 
 それに対して、京都大学二次の骨太の英語問題を、受験生に、時間無制限一本勝負が如き、何時間でもかけていいから、解いてみよ、と投げかけてみても、恐らくは、大方、2時間でも、8時間でも、24時間でも、得点は、余り大差はないことは容易に想像がつく。これは、文法や構文、読解や作文といった表層的な知識では、到底たちうちできない、いわゆる、英文法や構文の“編集能力”が試されてもいるからである。『ターゲット』や『ポレポレ』、そして『ネクステ』をマスターしたくらいでは、到底、登頂できない、エベレストやK2といった高峰でもある。因みに、共通テストも、その三冊をマスターしても高得点はかなわぬジレンマがある。
 どうも、センター試験枠を大いに増やす私大の幹部や国公立のセンター比率が大いに高い配点にしている大学関係者の脳味噌は、無責任なのか、無能なのか、どうもこのセンター試験・共通テスト信奉者がまこと多いという現実がある。それは、IQが高い人間、また、センター試験・共通テストで高得点がとれた受験生、それが、“頭がいい”と思い込んでいる、また烙印を押す習性の証拠でもある。それは、短時間内に問題を効率的に処理できるという、AI度と同じに過ぎぬ。昭和の霞が関の官僚に求められたものでもある。この気質をエリート公務員に求められていることに気づき、深夜までサービス残業を余儀なくされ、政治家の“使いッ走り”となっている実態に気づいたと東大生は、もう、国家公務員一種など目指さなくなってきている。東大生でも情報編集能力のある者たちは、シンクタンクを目指すリクルート行動にそれを証明してもいる。
 賢い東大生は、大学受験の延長線でもある国家公務員総合職(国家公務員一種)試験を経ても、灰色の将来像しか思い描けない現実が見えてもいる。では、賢い高校生は、旧7帝大を志望する地方の秀才は別だが、どうして、このAI的サイボーグの気質を試す試験を、回避しようとしないのか?学費も、昭和、平成前期、平成後期と、私大国立とどんどん縮まってきているこの令和に、高校生の令和の共通テスト受験者数が減ってきていないのは、文科省と学校当局の結束がつよい証拠である。現場の普通高校の殆んど全ての生徒は、受けたくもないセンター試験、いや、共通テストをうけざるをえないような受験システムに仕上げてようとしてきている。  
余談だが、大学入学共通テストとは、令和の受験“徴兵”身体検査の如きものになれ下がった!
 

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