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教育において論理とは如何なるものか?

 昔から、いやロッキード事件以来、田中角栄逮捕から、国民は、政治家に“倫理、倫理”を求めてきました。いや、ジャーナリズムかもしれません。最近では、文科省、教育界から、現場、生徒にやたらと“論理、論理”と、その標語をあてはめて、その錦の御旗を、絶対是として、教育改革に猛進している気配が、やたらと気にかかる。
 
 先日も朝日新聞(2022年4月10日)の教育欄の特集、“どうなる?教科書”と題されたものが載った。
 
 文学と論理 区別に疑問の声
 
 小説と評論を併記…文科省が修正要求
 
 3月に公表された高校国語の教科書検定の過程に対して、教科書会社から疑問の声が出ている。同じ教科書に評論文と小説の両方を乗せたところ、文部科学省から再三、削除や修正を求められたからだ。背景には、現代文を「論理」と「文学」に切り分けた新学習指導要領の問題点がある。(川村貴大、編集員・氏岡真弓)
 
 では、論理とは、如何なものなのであろうか?近年、それぞれの方面から、論理を牽強付会の如く、自身のジャンルへ我田引水のようにひき釣り込む傾向が大であります。
 
 まず、作家の世界、文学界からは、小説にも実は、感情や感性とも見まがうような論理というものが、一貫して流れていて、小説も、ある意味、論理を学べる、いや、論理が分からなければ、小説はわからない、味わえない、読み込めないと主張する派であります。芥川賞作家小川洋子も主張されているものです。
 この、「小説にも論理あり!」論に関して、一種、疑問がわくのは、センター試験(共通テスト)では、評論文一題と小説一題が必須であるのに、私大の現代文においては、小説問題が皆無であるという点である。これは、中学入試が、小説がほとんどである点とは対照的である。12才には、感性を、18歳には、知性を、そういうメッセージ性があるのであろうか?このセンター試験にも小説ありの疑問に、私なりの意見があるが、また場を改めて論を展開することにする。 
 
 次は、大学受験の現代文講師の主張です。大学入試の問題文を通して、論理性が身につく、この論理力こそが、その後に生きる上で、何かと役に立つというものです。代表格は、カリスマ現代文講師出口汪などのものです。
 更にまた、それとは対照的ながら、カリスマ現代文講師林修の論があります。それは、「大学受験で、高校時代一番大切な科目は、数学だ。なぜならば、数学から論理が学べる。論理は数学の存する」というものです。国語という科目の先生らしくない論拠です。恐らく、超進学校東海高校から、現役で東大文科一類に合格し、高校数学で挫折もせず、東進ハイスクールに最初は数学講師で採用された、そのプライドと、その後の理学部出身の数学講師へのコンプレックス、これがない交ぜとなっての、一種、数学の世界の理論性、合理性、それに“幻想的あこがれ”に起動されての発言でもありましょう。この数学‘論理’絶対主義は、同じ現代文講師の出口氏や尾木ママこと、尾木直樹氏など国語畑出身の人々から、それも私立文系から国語教師となった部族からは、口が裂けても言えない高尚な意見でありましょう。
 この林修氏が主張されてもいる、恐らく、彼自身の、「僕は、数学が得意だったから、論理というものを身に付けられた、その論理力で、現代文を読み解いて、今や、カリスマ現代文講師にまで昇りつめられたのだ」といった内心の矜持、これを打ち砕かんばかりの意見を先日、ユーチューブで、英文学者渡部昇一と数学者藤原正彦の対談「大道無門」で知った。
 
 藤原氏曰く、「日本人の高校生が、アメリカのハイスクールに転校してくると、数学がめちゃくちゃできて、数学の天才と皆から思われるらしい。しかし、実は数学は、アメリカの高校では、日本の中学レベルしかやっていない、進度が遅いのです。しかし、英語のディベートなど、もちろん、英語のできなさにも原因がありますが、議論して、論破されてしまうのです。言葉で言い負かされてしまうわけです。私が、言いたいのは、実は、数学の論理と言葉の論理とは違うということなのです」その発言をうけて、私立文系から上智大学英文科教授ともなった渡部昇一氏は、何も反論できないでいた。この点で、林修氏の主張されてもいる、数学が論理性(言語の範疇)を耕す説はどうも怪しいといわざるをえない。林修氏の魅力、いや、強さは、メディアで発言されている、その論理性、理論性に魅力があるのではない、むしろ、物知り、プチ博学、“walking dictionary”としての立ち位置にテレビ界で重宝されてもいるのであり、その弁護士タレントまがいの論理性によるものではない。東進の生徒しか、その林氏の論理性という、その実態がわかりはしない。
 
 様々な作家、文学界の声として、小説にも、論理はある。高校の国語の教科書から、「舞姫」「こころ」「羅生門」「山月記」を排除するな!というものがくすぶり続けている。小説などの文学作品にも論理性は通奏低音として流れているといった、一種、理想論に近いものである。これは、凡人には、超飛躍して耳に響く名言「数学は情緒である」(森潔)を連想させてもしまう。
 次にあるグループは、国語の教師、現代文の講師、その論理性涵養説というものである。この部族は、恐らく、評論文のみを大方、俎上にのせて、生徒に日本語の分析の仕方、解釈の方法を伝授している模様であるが、私にいわせれば、高校時代、予備校時代、現代文で得点する方法(『記号的読解法』:藤田修一・『例の方法』:有坂誠人著など)を拝聴したが、それが、果たして、その後の論理性と結びついたものかはなはだ疑わしいといわざるを得ない。むしろ、英文解釈や英作文で培われたとさえ言える。因に、鷗外、漱石、芥川から大江、村上に至る文豪は、みな外国語との格闘の洗礼をうけて、日本の名作を書いてもきた、源氏物語や平家物語を読み、小説家を志そうとした人を、私は知らない。
 源氏や平家などを読んで、論理が身に付いた、日本の古典にも論理はある、などと主張しても、ある面では、いや、あらゆる面で説得性はない。但し、古典を読みこむ、そのプロセスでは、古典文法によって、英文法に近い、論理的読解力は教わったとだけは断言できる。この点では、論理とは、外国語のみならず、古典であれ、その読みこむ思考工程に存するとも言いえる。それが、現代語の日本語で書かれた小説という段ともなると、肯定に留保がつく。
 
 論理という、その概念ジャンルを、小説家の世界、文壇、文芸出版界、さらに一部の国語教師からは、「論理性といったものがなければ、小説は分からない、だから、高校で教科書から小説を外すな!」と、自身の職業柄・収入源・得意分野擁護の見地から、小説は大切だ!と声高に叫ばれているように見えなくもない。
 現代文講師、特に、評論文を中心に、受験高校生を指導する、著名な現代文講師からは、国語(非小説)から論理は学べると根強い主張がなされる。これも、自身の職業を、保持する、なりわいを守る行為に映ってしまう。
 林修氏に代表される現代文講師でも、「やはり、論理の王者は、数学にあり」だから、できれば「数学から、論理を身に付けるべし」論も、おそらく、数学教師が賛同されもする説を唱道する派も存在してくる。
しかし、素人目線、数学挫折派、私立文系組にとっては、この数学論理説は、理想論、形而上的言説に思えてならない。
 その数学絶対論理説に、異議を唱える、数学者藤原正彦氏の「数学の論理と言語のそれとは別物だ」という説が私立文系組の目を引く。その筋の専門家、特に、数学者からの「論理とは如何なるものか?」の命題に、ヒントを与えてくれもするものが真実に近いものであろう。というのは、昔から、中央大学の法学部が、弁護士の私大の最大輩出機関であったこと、また、今では、数学が課されてもいない慶應の法学部が、司法試験の合格者で最大数になっている例をとるまでもなく、数学の論路と言語の論理はまったく別ものであるという藤原説に信憑性は大いにあるといえる。
 
 では、この教育、特に、高校生において論理、論理性、論理力とはいかるものであるあるのかをもう少し、掘り下げてみたいと思う。(つづく)

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