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受験における国語の立ち位置・存在理由といったもの

 お受験、いわば、私立の小学校受験において、足し算・引き算などはもちろん、ひらがな・カタカナ・漢字の読み書きを試験で課す学校はまずない。それは、たかだか、6歳の段階で、知識や認知能力を試すことなど不可能、いや無駄であるとも弁えているからである。幼稚園・保育園までで、どれほど情操教育がなされてきたか、人生の初期段階の社会性をある程度身に付けているか、ものごとにどれほど集中できるか、その集中力、また、様々な将来的にプラスとなる気質を判別する場、それが、お受験の試験会場でもある。これから、花、果物、野菜など、どんな苗を植えても見事に育つ、その土壌の質を観ているのかもしれない。

 

 では、中学受験はどうであろうか、これは、国語を例にとる。それは、ほとんどが、小説の形式で、時に、随筆や詩などもあるだろう、しかし、抽象度の高い評論はほとんどない、あるにしても、新聞や雑誌、ときには、新書レベルの文章にすぎない。これは、どういうことか、12才の少年少女に対して求めている、いや、優先されるのは、知性ではなく、感性である証左でもある。その典型が、麻布学園の国語の入試問題である。

 これは、初等教育では、やはり、情操教育から感受性を育む、そして、研ぎ澄まされたその感性を、中等教育へどうバトンタッチするのか、その分岐点であることを証明してもいる。この隠れた、教育上の理念というものが、国語と同様に大切とされる科目が算数である。その算数という“科学”とは結び付かない、幼稚な響きのある用語の科目から数学へとシフトしていることからも明白である。

 

 次に、高校受験の段になる。この高校受験は、県立高校や私立の難関校(灘・開成高から早慶系列校にいたるまで)などでは、小説と評論の国語での受験問題では、同じ割合ともなる傾向にある。これは、前者優勢であれば、感性重視の学校であり、後者優勢であれば、知性重視の学校であることが、そのメッセージ性として了解できもする。

 

 最後に、大学受験ともあると、国語の問題は、特に私大においての現代文のジャンルは、9割以上、難解な、抽象度が高い、年に数百冊も本を読み、国語の成績がとてもいい小学生でも、高得点を取ることが難しい、いや、その文章の内容は時として‘チンプンカンプン’なのである。これは、読解力がないといった範疇の問題ではなく、知識のなさ、抽象的概念のなさ、あとは、数英社理などその他の学習内容の習得ならびに、その高校生の人生経験の濃密度などが加味されてもくる、そうした背景に左右される文章になるからである。

 この大学受験で求められる現代文、つまり、評論文を読み込む“リテラシー”というものを、読解力といえるのであろうか?それとも、情報処理能力と呼ぶべきなのであろうか?はたまた、自動車学校の学科でよく教授される読解テクニックと命ずるべきなのであろうか?どうもこれらを、大学受験予備校界にいる、現代文講師なる部族は、論理、論理力とやたらに強調することが、気になって仕方がない。

 これは、私個人の10代の経験(習う立場として、国語問題に必死に格闘してもがき苦しんだ時代)、そして、30代の経験(教える立場として、国語問題を真剣に分析した時代)、   この両者を交えて、教え子に諭す。真実は次のようなものである。

 

 高校生での、大手予備校、ネット授業、参考書、特に、夏期講習などで、数日間から1週間、現代文が苦手な生徒が、そのカリスマ講師に習って、一番効果がない英数国社理の中の科目は、国語、それも現代文だぞ!と警鐘を鳴らすのである。教え子に、現代文という科目への、苦手から得意へは、もちろん、苦手から少々点数が上がった状態への脱皮、また、現代文への苦手意識の解消、現代文の安定した高得点などは、決して期待するな!このように、申し伝えてもいる。それは、国語という苦手体質を解消する、その処方箋は、西洋医学の薬というよりも、漢方薬に近いからでもある。それは、小学校、中学校、さらにさかのぼれば、幼稚園時代や赤子時代の絵本でも読み聞かせまでもが、その後の国語の力のベースとなっているからである。初等教育までの、“国語の土壌”、これこそが、その後の国語、特に現代文の伸びしろを決めているからである。

 

 余談にはなるが、現代文予備校講師林修、国際政治学者三浦瑠麗、元財務省官僚で弁護士、ニューヨーク州弁護士でもある山口真由などは、小学生時代に圧倒的読書量の洗礼を受けてもきている。

 また、私のいう、この論拠は、雑駁ながら、次のような事実においても、例証されることであろう。

 書店の幼児コーナー、小学生向け参考書売り場において、『我が子に如何に国語力をつけさせるか』『国語ができる子に育てるには』『国語力をどう身に付けさせるか』と銘打たれた本がいかに多いか。その一方、中学生コーナーは素通りするが、高校生向け参考書コーナーでは、そうした題名のものは、全くない。あるとすれば、『現代文で高得点をいかにとるか』『現代文を得意にする方法』『現代文をどう読むか』の類の本なのである。思春期を境に、国語、特に現代文は、人間の背丈同様に、“伸びない”科目なのである。

 

 大学受験の現代文の勝ち組は、いわば、初等教育、中等教育の前半、これで大方、決まるといってもいい。この、16歳以前の国語体験が、17~8歳の現代文の優劣を決定してもいる。また、そうした中学生までの国語体験が、希薄で、貧弱でもあった苦手族でも、大学受験で、高得点をとれる、悩まない部族は、情報処理能力や読解のテクニックに出会った、見つけた、数英が得意な高校生なのだ。これは、カリスマ現代文講師が主張する、論理とか、読解力とかいった代物を習得したのではなく、英語の語彙力や文法の論理性、数学のロジックなどがベースとなり、日本語を問題文というテーマで、出題者の意図を、要領よく見抜く“受験現代文の機知“を身につけたに過ぎにぬ。この点、カリスマ現代文講師林修氏の授業を受けて、現代文を苦手科目から克服した事例も説明がつく。彼の教え子、受講生は、ほとんどが東大志望である。おそらく、英語は苦手ではない、数学も挫折はしてはいない、漢文や古文はましなのかもしれないが、現代文だけが凹んだ科目なのである。その悩みを教祖様は、解消してもくれよう。ここで、以上で述べた私の論拠が、輝きを増す。さらに、決定的な私見をのべれば、MARCHレベルの現代文で伸び悩んで高校では、林修氏の“神通力”は通用しないのである。彼の、現代文の神通力(仏法)が通用して、救われるのは、平安貴族(東大京大)なのである。武士(MARCH)や庶民(日東駒専)には、到底、現代文では、悟りの境地へ導くこと、極楽往生させてあげることができないとも言える。

 

 さて、ここで、私大の大学受験の現代文の問題はほとんどが評論文であることは、自明の理である。また、高校教科書の『論理国語』と『文学国語』に股裂き状態にする愚挙、小説・詩歌軽視の傾向にもあるにもかかわらず、令和の時代における大学入学共通テストで、依然として小説が1題出される現状は、どういうことなのであろうか?これについて、次回語ってみたい。(つづく)


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