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高校生の国語という科目の中の小説というもの

 国立志望の高校生は、文系なら数学と理科一科目、理系なら国語と社会一科目、それぞれ、必須の関門が待ち構えている。ある意味、リベラルアーツのリトマス試験紙が、授業料の安い国公立の必要条件である証左となっている。これが、典型的に顕れてもいるのが、国立と私立の医学部受験における科目の負担量といったことは、知的天分量(頭がいい)と金銭的裕福さ(金持ち)にものの見事に象徴されている。
 
 では、センター試験、いや、大学入学共通テストの国語という科目内の事情とやらを考えてみたい。評論文、小説、古文、漢文、それぞれ50点の配点で、合計200点満点という、このジャンル配分とやらである。
 
 今般、論理国語という科目から、小説が放逐された事件は、マスコミ、教育界、教科書出版界の超話題ともなった。第一学習社の教科書だけが、小説を掲載して、検定をパスし、日本中の高校から圧倒的採用数を得たことは、他の出版社から羨望、嫉妬のまなざしを交えて、文科省への批判となったことが記憶に新しい。
 
 教科書の世界では、小説は、令和の時代、肩身が狭い、日陰者、軽視の対象とすら思えてもくるが、現場の高校教師の間では、その反対である。
 私立大学の文系学部における国語という科目において、小説のジャンルがまず出題されない現実、つまりは、昭和から平成にかわって、共通一次からセンター試験に移行して、一層顕著となった現実は、私立大学の赤本をちょっと立ち読みすれば、納得するはずである。まず、私大文系の国語の問題から小説を見つけるのは、数十冊に目を通し、一題あるかないかの比率で、超絶滅危惧種となってもいる。
 それにもかかわらず、国民的行事でもあるセンター試験から共通テストにいたるまで、小説が旧態依然として、何故登場してくるのか?
 文科省の、国語教科書からの、小説冷遇、小説排除、小説軽視、そうした態度とは、裏腹に共通テストにおける、相変わらず小説出題という方針をどう解釈すればいいのか?
 これは、個人の憶測、個人的見解という断りを入れて申し上げると、この小説という一題にこそ、従来の官僚養成予備軍としての、旧7帝大に代表される、初等教育における国語勝ち組を取り込みたいという、意図・メッセージ性があるように思えて仕方がないのである。
 非常に雑に裁断すれば、大方、国公立の有名大学に進む高校生は、相対的に、小学校時代本と馴染んできた、読書が好きでもあった、そうした少年少女である傾向が高いと言える。そした彼ら、中学受験をするしないにかかわらず、公立の中学校に進もうと、その後、都立日比谷高校や、県立翠嵐高校へ進む資質を秘めてもいるというのが、自説の根拠でもある。これは、私の学ぶ立場としての10代、そして、教える立場としての30代を比肩して言えることでもあるのだが、国語が真にできる生徒は、一般的に、速読が身についてもいる、それが長所でもあり、武器ともなっている点なのである。これが、その後、情報処理能力として、他の科目へも援護射撃してくれる長所となる実態が現に存するということに過ぎない。
 この速読に裏打ちされた情報処理能力といったものが、霞が関の官僚として、大いに求められる資質であり、留学し、ゼミなどの大量課題図書を数十冊、1週間で、まとめる(レジュメ)能力ともつながってくる。これは、精読や熟読といった、玩味するという範疇のものではなく、要点やツボ、または、全体の流れなどを、瞬時に把握する技術なのだ。誤読はもちろん、独自の解釈やユニークな読みなどは、もってのほか、禁じ手ですらあり、点数や評価には結びつかない。余談ながら、文学研究なるものの真骨頂は、この“誤読”や独自の解釈、はたまた、空想的読みなどが、その文学作品などに新たな切り口や、分析のヒントとなることは、フランス現代思想のR・バルトやJ・デリダ、また、蓮見重彦などから、“誤読の生産性”なるものの領域もある現実に、我ながら励まされたものである。これぞ、センター試験から共通テストにかけては、マイナスの資質ともなる。「誤読こそ、作品に豊饒さを与える。作品を進化させる」ということを。実は、日本の国語教育、特に、入試の国語問題の中でも、とりわけ、小説だけが、この文学の<ポストモダン的定理>を否定している、排除しているのである。
 飛躍しても聞こえるやも知れないが、国語における評論文とは、西洋絵画のドラクロワ以前の古典主義・ロマン主義、その一方、小説とは、モネ以降の印象派、キュービズムや抽象絵画、そのように喩えたくもなる。前者は、宗教的知識、古代ギリシャ・ローマの文化的教養を背景としたリアリズムの世界であり、後者は、予備知識など無用の、非リアリズムの世界なのである。ある意味、我流の解釈がゆるされもする、いやそれこそが正統ともされる芸術なのである。
 さらにまた、評論文は絵画的、小説は音楽的、極論ながら、小説を問題文として出題するのは、ちょうど、藝大の音楽科で、これは誰のマエストロの演奏か、これは、誰の指揮者の交響曲か、その<耳力?>を試す試験のようなものいったら暴論でもあろうか?
よって、入試という、科目の“王者”数学を規範とする客観性を絶対是とする通過儀礼(受験)において、それとは、真逆、対極にある小説は、不向き、不適合なのである。中学入試における、12才の少年少女の感性を、社会性を、フィクションの中の道徳を、また、初等教育における最低限度の“国語:読み書き、そして語彙力”力を判別するツールとして、小説を出題するならまだしも、思春期を過ぎ、成長の止まった18歳に感性を、社会性を、社会的モラルを試す試験とは如何なるものか?その小説出題の意図・本意とは、次のコメントを援用して、結論を出してみたいと思う。
 早稲田大学教育学部の石原千秋教授は「小説の出題は道徳の問題」と考える。
 例えば、「殴る」という行為が描かれた小説をどう読むか。「実は愛情を持っているという道徳を出題者と解説者が共有していなければ、ただの暴力としか読めない」と指摘する。
 小説が減り始めた転機は1980年ごろになったようだ。「以前は、道徳的な共通解釈が出題者と解説者の間に共有できていたから出題できていた。多様な価値観が広がり、解釈も一つではなくなった」と話す。
 では毎年小説を出しているセンター試験はどうなのか。「あれは設問文を長くすることで、設問自体の読解力があれば解けるようになっている」と手厳しい。
 石原教授は提案する。国語ではなく「文学」という科目を設けてはどうか、と。
 戦後、GHQが「芸術」という科目を作ろうとしたことがある。美術や音楽と同じように、文学を学ぶ科目だ。「文学」の授業は文学者が各校を回って生や暴力をテーマにした小説を取りあげ、自由に読ませる。心を採点することになるから、正否はつけない。「あえて小説を入試に出すなら、自由に解釈を書かせて、採点者の好みで大学が求める個性を評価するしかない」と石原教授は話す。
                    朝日新聞 2011年12月6日  文化欄  【探】より
 
 この引用文から、実は、大学入試に、小説を課す一つの、暗黙の意図とは、読解力と見せかけた速読力、言語の情報処理能力を試しているとしか考えられないのである。これは、小説だけでなく、昨今の評論文にも言えるし、地歴公民といった社会の科目にもその傾向が表れている。さらに、それの性質は、数学という科目にも顕著に表れていることは、数学教師も指摘しているところである。
 
 結論を言わせてもらおう。国公立試験で求められる資質は、主観的、感性が介在する人間的なものではなく、AIと同類の、短時間で、情報をどうさばけるのか、その処理能力を判別するものにどんどん変化している、なれ下がっているということである。
高校生にとって、共通テストの小説の立ち位置とは、いや、他の科目もだが、AIに近い、情報処理能力を、<小説という仮面>を被って、試しているに過ぎないのである。
 
 こうした、悪しき傾向は、英語においても、ブロウクンでも、ぺらぺらと英語を積極的に話す高校生の方が陽が当たり、評価すらされ、口下手、寡黙で、余り英語を口にしないが、英文をきちっと読み書き出来る高校生が、周囲から英語ができない奴として、日陰者の存在に扱われる現在の英語教育と相似関係をなしてもいる。
 

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