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脳科学者茂木健一郎氏の言説の死角

 脳科学者茂木健一郎について、少々言いたいことを述べさせていただく。彼の、日ごろの発言や書籍の内容に関しては、大方、7割強は、首肯する、同意する、また、納得することばかりであるのだが、一方、残り3割弱の言説が、どうも引っかかる、理想論、天才目線からの裁断としか思われない事柄を指摘してみたい。

 最近では、地上波のテレビはもちろん、メディアにはほとんどお出になられない彼ではあるが、ひと昔前、NHKの“プロフェショナル”なる番組で、住吉美紀アナとのコンビでズバズバ発言されていた頃が懐かしくもある。一方、最近では、YouTubeやネットで自身の意見を述べられたり、様々な所で講演もされている映像や肉声にスマホなどで接することができる。

 では、彼のどのへんの言説がひっかかるのか、その具体例を挙げてみたい。
 一つは、TOEIC不要論である。次は、塾不要論である。最後に、偏差値基準で序列化する日本の大学の実態批判である。
    
 まず、ことの論を進める上で、世の中における二元論ならぬ、三元論から語ってみたい。 
 二元論とは、言わずと知れた、物事を二つに分類して、事象を分析する考え方である。男と女、昼と夜、太陽と月、白と黒などなど、陰と陽に分けて、その現実を整理する論法の基本である。では、三元論なるものは、あるのだろうか?哲学上は、森岡正博氏によって提唱されたものとして、あるにはあるらしいが、私は、敢えて我流ながら、次の言葉を援用し、物事を分類してみたい。
 政治的には、賛成、反対、棄権というように、また、色彩的には、白、黒、灰色というように、また、時代的には、古代(ancient)、中世(medieval)、近代(modern)というように、社会的には、上流、中流、下流というように、三つの括りで事象を分析するものと単純に考えてもいる。
 この三元論の視点で、茂木氏の言説を逆裁断するならば、社会や学校、そして、システムという、ある意味、“中庸”のいいところ、潤滑油的働き、対立する両項の通訳・橋渡し、良き意味での人間社会のファジーな側面、“緩衝地帯”とでもいっていいかもしれないが、それを無視する、抹殺する発言に思えてならなのである。この茂木氏の言説は、令和の時代、ネットの社会、デジタルの世界では、ひろゆきやホリエモン的言説にも同様に該当する。この御三方は、中流の知を無視し、下流の層の部族に、非現実的な幻想を抱かせる悪しき側面を有している点で、劇薬使用容認派ともいいえる。同族である。

 ひろゆきの「学校の古文なんて意味あるの?日本史覚えて何の役に立つの?」やホリエモンの「21世紀に、大学なんて行く意味ない!ネットで全てが学べる。寿司職人になるには、10年もの修行なって必要ない!寿司学校に半年通えば、立派な寿司が握れる。」などは、“天才”的上から目線で、茂木氏の言説と根底で繋がってもいる。
 古文は、以前にもこのコラムで書いたが、役に立つ、役に立たない、それとは別次元で必要なのである。また、大学は、生の、直接の、アナログ的、人間の交流のトポスとして、重要な要素であり、寿司学校のみで、寿司の名店なんぞを立ち上げられる人は、超マイナーである。マイケル・サンデル教授が最近書籍で言及されてもいる、能力とは、半分以上は、運であるという文脈を見過ごしてもいる私説にすぎない。統計をとってもらってもいい、寿司学校のみで、どれほどの寿司の名店を経営されている20代、30代の大将がいるのか?

 さて、茂木氏の言説の本題へ戻るとしょう。
 まず、TOEIC不要論である。これは、ミスターTOEICこと、カリスマ予備校英語講師森田鉄也とのプチ論争もあったが、凡人的観点から、短刀直入に言わせてもらえば、TOEICなる存在は、学校の定期試験と同じ類のものである。高校生は、3学期制で、一年間に中間と期末試験がだいたい5回行われる。よく、教育理想論者が語ることだが、工藤勇一氏の如くであるが、その定期試験を廃止したとしたら、恐らく、学力中レベルの高校生以下は、高校で学んだ内容のほとんどを忘却の彼方へ雲散霧消してしまうはずである。また、推薦制度(定期試験の成績による)の抹殺行為、学校当局の進路指導ヘゲモニーの放棄とも、教師存在の自殺行為ともなりうる。
 現実を観れば、大方の中学生、高校生は、学校のテスト、また、英検などがあるから英語を勉強しているわけで、茂木氏は、中学時代、それも公立中学時代に英文法などやらず、『赤毛のアン』などの小説をたくさん読み、英語が上達したそうである。そして、学芸大附属というエリート校へと進む。彼曰く、中高時代に、一切塾・予備校など通ったことがないとのこと。これで、東大理科一類に進む。はっきり言わせてもらうが、彼は、持てる種族であるということである。“知的ブルジョワ”でもある。裕福なる者、貧しき者の気持ち分からずではないが、天才は、がり勉、準秀才、凡人の気持ちがわからないのである。

 世の中の多く、例えば、日本の会社の99,7%は中小企業だという現実を鑑みても、それは、日本の中高生、大学生の0、3%しか天才はいないことにも応用ができる真実である。
 事実、この中小企業が、日本経済を回している、また、このがり勉、準秀才以下が日本の初等から高等教育の主役でもあり、お客さんなのである。その後、彼らが、社会で日本の企業を動かしてもいる。
 日本は、都市銀行ではなく、地方銀行や地域密着系の信用金庫が、日本中の中小企業を支えているように、実は、塾や予備校なる存在が、知的中流ゾーンの日本社会を支えてもいる。日本では、世の、知的中流レベル以下の部族を、塾・予備校が涵養・陶冶している現実に、茂木氏は目が届かないのである。欧州は、中等教育から高等教育まで、一般的には無償である、また、20人学級がメインの社会なら、茂木氏の意見も説得力はあるが、日本は、マス教育、教育予算がOECDの中でも最低の国であることを考えれば、“茂木文科大臣”の指揮で教育行政を行ったからには、令和の年収400万以下の家庭が5割を超える実態同様に、知的ミドルゾーンを消滅へといたらしむることは明々白々である。

 昭和後半から平成初期にかけて、日本総中流社会とも言われた時期があった。それは、子供が多い時代でもあり、日本の企業に元気もあった頃であり、日本流経営手法がジャパンアズナンバーワンとも称された時代でもあった。今や、上流1割、中流3割、下流6割とも評される令和である。これは経済的割合である。茂木氏の言説で、教育を行えば、竹中・小泉の構造改革と同じ現象を教育界、教育システムに招きかねない。

 茂木氏は、欧米の大学の基準で、日本の大学を裁断している。ケンブリッジやハーバードなどは、偏差値で大学ランキングが上位に来ているのではないとも話されるが、そんなのは、百も調子のことである。「茂木先生、ハーバードの偏差値ってどれくらいなんですか?」と質問してきた馬鹿な日本人の高校生を引き合いに出して、「だから、日本の高校生はダメなんだ!」と、彼は裁断する。また、茂木氏が東大に入学した頃もそうであったそうで、茂木氏が東大生に向かって、「これは、今でもそうなのだが、駒場キャンパスで、お前、どこの高校出身なの?灘?開成?俺、筑駒なんだけど、超進学校自慢に明け暮れる」「お前、駿台の公開全国模試で、名前載ったことある?俺、二度ほど、数学と物理で一位とったんだけど」こんなやり取りをする、一種、過去の栄光や、お勉強の成績自慢しか大学キャンパスで話さない東大生を「バカじゃないの?」と批判してもいた。この点は、茂木氏が東大生であった頃と全くかわらなそうである。確かに、正論ではある。こうした連中は、バカなんかじゃなく、精神が幼いのである。勉強から学問へと高等教育においても脱皮できていないのである。学びのパラダイムシフトができていないのである。これは、留学するとできるらしいが、近年では留学志望者は下降線をたどってもいる。恐らく、穿った見方ではないが、多くの大学が留学を1年や半年義務付けている大きな要因は、語学の向上もさることながら、このマインドシフトを期待してのことでもあろう。こうした気質は、韓国や中国にも、恐らく該当するものであるが、母国語と高等教育の連綿性の有無が日本と韓国や中国とを分けてもいる。アジア的、科挙的、儒教的知の慣習とでもいったらいいだろうか?欧米とアジアの高等教育、大学の伝統の差の証左でもあり、この側面は、当面脱しきれないだろう、脱したら、アジアにおける知的教育レベルは落ちるのが、その運命(さだめ)ともなるのは見えている。
 欧米目線で、日本の教育システムを批判することは、容易(たやす)い。これが、日本の政治家、衆議院と参議院の議員数の多さと職業色の強さを、欧米とくらべてみれば、歴然と違うとする側面でもあり、確かに悪しき慣例でもある。
 この政治的負の側面を改善することは、多難が待ち構えてもいよう。大学を現段階で、偏差値という難易度以外の側面で評価する基準なるものが、もしできたとしたら、それは、日本では大学ではなくなる、大学の仮面を被った専門学校と同類となってしまうからである。笑い話ではないが、今やそうなりつつある。この点が日本の中等教育から高等教育への橋のかけ方のジレンマでもある。日本の大学の急所なのである。
 12世紀後半から設立されたオックスフォード、ボローニヤ、パリ大学、17世紀後半のハーバードや18世紀前半のイェールやプリンストン大学とは、高等教育の立ち位置、役割、そして伝統というものが、19世紀後半以降に設立された日本の大学とは格段に違うのである。ましてや、戦後旧制高校という、エリート制度を廃止し、6334制のアメリカ型へ変更せざるをえなくなった宿命も、現在の大学の伝統を、ある意味断絶してしまった罪は深い。日本の大学は20世紀半ばに設立されたと同義ともいえる。

 家柄のいい家系の子息の立ち振る舞いと一般庶民のそれの違いであり、戦前の財閥系企業と成金社長の大企業、また、オーナー社長のメンタルとサラリーマン社長のそれとの違いでもある。これが欧米の大学と日本の大学との大きな違いといってもいい。

 茂木氏の判断基準は、この、二元論、つまり、欧米か日本か、超エリートか大衆か、天才か凡人か、その二つで、すべて日本の教育システムを裁断している点が、日本の、日本らしさ、それを消滅へと導き、畢竟、日本の没落への近道を先導しているようにしか見えない所以でもある。

 ※なお、茂木氏の『なぜ日本の当たり前に世界は熱狂するのか』(角川新書)は、日本の良き側面をほめたたえている名著である。茂木氏は、その良き側面が、彼自身が批判する日本の負の側面に由来することを見落としている。このジレンマを茂木氏は、見落としているのか、見えないのか、それは、研ぎすまされた理性の死角でもある。
 この茂木氏と同様の死角を有する知的アイドルは、『努力不要論』の中野信子であり、『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論ある。』の山口真由でもある。


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