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ひろゆきの古典不要論とドナルド・キーン

 日本人は、<外国>に弱い、外国人の言説に折伏されやすい、いわば、舶来志向が根強いとされる。これは、明治維新後に顕著となったものなのか、いや、平安、奈良時代の、遣唐使、遣隋使以来のものなのか、はたまた、敗戦後の、アメリカ文化至上主義が、そうなした業なのかは、つまびらかにはしないが、その典型的なるものが、ノーベル賞の権威にひれ伏すメンタルである。これは、今や、世界中でもそうであるが、その精神性といったものは普遍的なものなのであろうか。

 日本では、見向きもされなかった、日陰者の、変り者の、そうした研究、研究者が、いざノーベル賞を受賞すると、手のひらを反すとまではいうまい、メディア注目の的、ヒーローになる様は、日本人みなが実感している側面でもあり、有してもいる気質であろう。

 カミオカンデでノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊雅、小林・益川理論でノーベル物理学賞を受賞した小林誠氏や益川敏英氏などは、「そうした研究は、これから百年、数百年、いや千年先においても、日本人は当然、人類にとっても何の役にも立たない研究・理論である」と、その当事者たちが弁を述べても、大衆は、そうした実益性や効率性といった見地から、何の批判や否定的意見はもちろん、軽視や無視すらしない。戦前来日したアインシュタインが、彼の理論など日本の大学教授の数名ほどしか理解できなかったにもかかわらず、日本中で“知的ヒーロー”として大々的に迎えられた様は、日本人の知的レベルが高いのか、はたまた、知的コンプレックスの裏返しなのか、更には、知的なものへの無意識的敬意の顕れなのか。こうした側面は、非文明的側面、文化面、特に、文学から古典の範疇では冷遇されるのが宿命でもあろう。

 もちろん、山中伸弥、中村修二、吉野彰などのように、実社会に役に立つ研究は、小学生でも、その功績の意義、文明進化の立役者としての重要性は、教師や親でも説明ができる領域である。そのノーベル賞受賞の蓋然性の高さ、必然性の絶対さ、そういったものを理解できる受賞グループではある。

 さて、この前者、いわば、理論物理学方面の、湯川秀樹の系列、小柴昌俊、小林誠、益川敏英たちへの、社会的貢献度、実益性の濃淡、そうした側面を前提にして、まず、ひろゆきが、ネット議論で、テーマにぶち上げた、「古典なんて、やる意味あるの?古文なんてやって何の役にたつの?」というものを俎上にのせてみたい。
 先日、神奈川近代文学館に足を運び、ドナルド・キーン生誕100周年展を観てきた。率直な感想である。キーンさん{※キーン氏とは敢えて呼ばない!}の存在意義を、改めて、ステップアップ、いやダブルステップアップした思いがした。彼は、日本文学の海外への紹介者・翻訳家にとどまらず、日本文学の発見者・プロデューサーでもあったことが実感された。また、数名の文豪に匹敵する、いや、存在価値は、それ以上の日本文学の僥倖であったと言っても過言ではあるまい。
 小柴昌俊の理論が、「未来永劫人類には何の役にも立たない、利益にすらならない」(本人の弁)からといって、この人類を包摂する宇宙という無限の世界を、米粒の人間が知り得たその真実は、その意義は、ひろゆき以下、ホリエモンでも否定しないことであろう。
 それとは、逆ではないが、人間(クロマニヨン人・ネアンデルタール人)という、数万年前から地球上に出現し、それ以前はこの宇宙に存在しなかった生物、それもほとんど、メンタル面では進化を遂げてはいないホモサピエンスなる存在の、心的現象の記述、それが文学としたならば、これもまた、いくら研究しても、大衆レベルでお勉強などしても、研究者レベルで分析しても、せいぜい面白いという域をでるものではあるまい。理論物理学なるものが、未知なるコスモスという世界の開拓(旅)とするならば、古典研究・古文の勉強なる行為は、既知(?)の人間の心の世界の巡礼(旅行)ともいえる代物である。この両者は、役に立つ・立たない、そうした次元で量る代物ではない。
 近代文学の巨匠、例えば、正宗白鳥などは、アーサーウェーリーの英訳『源氏物語』を読んで、初めて、その面白さ、素晴らしさが分かったというエピソ―ドを持ち出すまでもなく。世の独学勉強家、国語教師、そして、職業作家といった連中でも、キーンさんの、芭蕉論で、どえほど、目からうろこ体験をしたことであろうか、また、キーンさんの大著、『日本文学の歴史』(全18巻)で日本文学の連綿性、そして、世界レベルの質、価値を、再認識した方がどれほど多かったか。
 音楽を真に愛する者は、クラッシック愛好家なら、ロックやポップスを軽蔑することもないであろうし、ジャズ嗜好者なら、歌謡曲なるジャンルを見下すこともないのは、武満徹、服部良一、山下洋輔、中村八大などを例に挙げるまでもなかろう。
 全ての音楽は、人間の生活に役に立つとか利益になる、そういった範疇で、人類に大切に愛され、存続してきたけではない。それは、親が我が子に見返りを求めずに育てる行為に似てもいる。無償の愛である。人間の芸術愛とは、それにも似通っている。
 この音楽の側面が、実は、文学にも言い得て妙なのである。ライトノベルは超面白い、漱石から三島までは、何か小難しい、一葉や鷗外の擬古文調の小説は、ほとんど読めない!さらに、平安から江戸までの古典は、古典文法を援用して、学校の授業で読まねばならない。これらは、音楽でいうボカロからバッハまでの音楽の歴史と同類の伝統でもある。こうした経緯を全否定して、すべての中高生が古典を回避、忌避したとするならば、それは、理論物理学などの研究は不要というに等しい。世に古典(クラッシック)という概念がある所以でもある。
 高校で物理を学び、将来、大学の理学部の教授になる人、プライベートでピアノを習い、音大に進み、そのスキルで飯を食ってゆける人、古典を高校時代に勉強して、国文科の研究者となる者、下世話な例で言わせてもらえば、精子の授精と同じ宿命なのである。数十万、数百万の精子が、卵子と授精をするのは一匹である。しかし、その群れがあって、その勝者?勇者?が、その道を継承してもゆく、その生物、生命継承と似てもいる、それが、ある意味、学校における中等教育の、それぞれの科目の存在意義なのである。

 キーンさんに話をもどそう。そうである、キーンさん曰く「日本文学は世界文学である。私の仕事はこれを証明すること。」彼の授業(彼の映像)を、中学生、高校生に古典、近代文学でもいい、それを教室で教える前振りに、見せたり、聞かせたりしたら、それは、ノーベル賞受賞者に、中高の生徒を前にして、理科の授業のイントロダクションをやってもらうのと同様の効果がある。それは、小学生の理科の授業におけるでんじろう先生の面白い実験を見せる効果と同様のものがあるはずである。

 ひろゆきのような古典不要論者を輩出する、現今の学校の授業、教師、それが問題といったら言い過ぎかもしれないが、時代がアナログからデジタルへ、活字文化から映像文化へ、レコードからサブスクへ、時代が大きく、急激に変貌を遂げつつある21世紀、実益主義で古典を裁断され、一方で理論物理学は、何も批判の矢面に立たされていないのは、やはり、科学至上主義ななせるわざなのであろか。都市生活の便利さ・快適さにうつつを抜かし、不快で、不便な自然体験など不要というに等しい盲論ともいえる。

 キーンさんの、日本文学への言説、日本文学への愛情と敬意の念というものは、日本文学に、ノーベル文学賞を、あと、数人授与するだけの価値があったと世の中高生に知らしめることができると断言できる。ノーベル文学賞や平和賞は、主観性・西欧優先で決められている実態を考慮しての話である。三島はカミュに勝るとも劣らず、安倍公房はサルトルやベケットに比肩する小説を書いた。谷崎はトーマス・マンレベルである。このように、キーンさんの文学フィルターを通すと実感されもする。

 ドナルド・キーン賞なるものがあったとしたら、いや、これから設置されること予言しよう。第1回受賞者は、ロバート・キャンベルあたりか?それは、さておき、それと同類の文脈で、平安から江戸までの日本文学のすばらしさ、偉大さ、つまり、日本人の美的感覚・美意識の鋭さ、高さ、これに、世の国語教師は、もっと誇張してもいい、生徒に教授する務めがある、その自覚が欠落、いや、薄いから、ひろゆきのような発言を肯定する、同調する人種を輩出してしまうのである。もちろん、初めから、国語嫌い、古典理解不能、文学無関心といった輩が存在することは否定しはしない。
 

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