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良い暗記と悪い暗記

 27年ぶりに無冠になったとはいえ、羽生善治九段は、どんな頭脳の持ち主かと思う人は多いだろう。羽生さんに限らなくても、対局終了後に行われる感想戦にはいつも驚かされる。一手一手を記憶するのはプロなら当たり前だろうけれど▲では記憶力は入学試験でどこまで重視すべきか。きのう始まった大学入試センター試験は2020年度から大学共通テストに変わる。知識偏重から思考力や判断力を当方向へ転換するという。だが、簡単な道ではないはずだ。▲それは外国でも課題だったようだ。16世紀フランスの思想家、モンテーニュは著書「随想録」の中で、「詰め込み教育」を批判している。「われわれは、ひたすら記憶をいっぱいにしょうとだけ努めて、理解力とか良心などは空っぽのままほうっておく」▲彼は批判の矛先を教師に向ける。鳥は獲物を探しに出かけ、それを味わいもせずに、ひなに餌として与える。――それと同じように「書物の中で知識をあさっては、それを口の先にのせておくだけで、吐き出して、風の吹くままどこかに飛ばしてしまう」と▲もちろん知識は大事だ。羽生さんは著書「羽生善治 闘う頭脳」で、プロになって1年ほどたって、「やっと考えることと知識がかみ合い始めた」と振り返る。つまり、詰め込み教育とゆとり教育のスイッチを入れ替えながら両方とやっていく必要があるという▲なるほど。でも羽生さんのように、そんなことができる人はそういない。だから、教育も試験も難しい。{毎日新聞 一面コラム余録 2019・1・20より}  ※下線太字は筆者による
 
 
 私の数十年にわたる、初等教育も含め中等教育に関して得た、ある一つの信念、いや、確信、今では、理念ともなっているものですが、次のような教育上の心得というものがあります。
 小学生低学年には、楽しく、高学年には、面白く、そして、中学生には、為になったと実感させる。そして、高校生には、知的に、それも、高等教育へ知的興味が飛躍してくれるように授業を行うことをモットーとしてきたつもりです。
 また、もう一点、難しいことを、易しく易しいこと、面白おかしく面白いことを、ああ、為になったと思わせる、さらに、その為になった感を、さらに、知的探求へと大学で雄飛してくれるような期待を込めて、教育的手法を常に心がけてもきました。
 池上彰氏の人気の高さも、実は、大人の世界の政治・経済といったジャンルをNHKの子供ニュースのお父さん役から身に付けた稀有のスキル、大人自身が、自分ではわかっているつもりなのだが、他人に説明できない内容を、噛んで含むように解説する手法、そこに彼の魅力があるのだと思われます。実は、この流儀は、中学受験の進学塾の人気講師や、大学受験のカリスマ講師などは、当然ながら自身のモットーとしていることは当然でありましょう。
 今でも、予備校講師によって、「ああ、日本史は面白いなあ!」とか、「世界史は勉強になるな!」「政経や倫理が、ちっと勉強になった、知的に、大人の気分になった!」などと高校3年生の段階で、知的興味が沸き上がりながら、前向きに暗記に勤しんだ男子女子は多かろうと思われます。しかし、そうした理系も含め、特に、経済学部や法学部、また、文学部に進学したとしても、彼らは、大学の授業は卒業単位のため、必ず出席するものの、学生自身がどれだけ前向きに新書などを進んで読んでいるでしょうか?ネット社会で、新聞はもちろん、書店あさり(何かいい本でもありはしないかの期待感で)などせず、今どんな本が売れているのかの情報すら無知、無関心の学生が大半だと思われます。
 
 日本史なら、半藤一利、山本博文、本郷和人、磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)~面白です!~……
 世界史なら、山内昌之、出口治明、佐藤優、茂木誠『ニュースの“なぜ?”は世界史に学べ』(SB新書)~大の大人もためになります!~……
 倫理・思想なら、『試験に出る哲学~「センター試験で西洋思想に入門する」~』(斎藤哲也)~理系の人{※倫政受験者が殆ど}は、大学生になったら是非受験の知識がさらに深められます!~……
 
 以上のように列挙すると、新書や文庫など、名著を多数だしている方々ですが、学生は、それも文学部の学生にアンケートをとってもらいたいものです、ほとんど読んではいないはずです。中公新書で超ベストセラーとなった『応仁の乱』や『観応の擾乱』、『承久の乱』などの読者はおそらく知的社会人から、老齢インテリ層でありましょう。
 東大京大の大学生協で4月5月のベストセラーに毎年、外山滋比古氏の『思考の整理学』(ちくま文庫)が登場するのは有名な話ですが、これなども、ある意味、知的思考のハウツー本に飛びつき、一種、知的になった気分の表層的お勉強族発生現象とも揶揄したくなるのです。彼らには、そこをスタートラインとして、独自の知的世界を開拓しようといった次の段階への学ぶひた向きさは感じ取れません。それだけではなく、また、スティーブ・ジョブスの伝記や名言集を齧っては、「自身もと…!」夢見る、彼に憧れを抱く学生が少なくないと思われます。だた、それ止まりで終わりです。
 受験でいう所の、丸暗記した歴史の知識は、そこに、面白さ、為になったといった知的実感が裏打ちされていれば、大学という次の段階で、それを、更に、深めようという勉学上の気概というものが芽生えてくるはずです。理解して納得した暗記が、高等教育で全く役に立っていないのは、大学当局の責任です。これは、サピックスや日能研の秀才6年生が、中高一貫の進学校に進むや、その時点が、知識のマックス(頂点 )
で、中学3年間は、その知識の消滅、知識の下降線をたどる現象とまったく同じものがあります。これも私立校の中学部の責任が多大にあると思われます。しかし、そうした彼らは高校生ともなると、小6時点のマックス知識を再度復旧し、高校生としての学び直しの段階に入ります。大学受験の日本史・世界史の高等レベルの細かい知識暗記へとメンタル変換を余儀なくされるのです。この現象は、大学生が3年、4年になると、就活を意識し、知的世界(大学の授業)は二の次、企業研究や就活セミナー、面接で役に立つ(?)ビジネス書・ハウツー本の数冊を齧り始めるのと少々似ています。
 ここで、真の暗記(良い暗記)偽の暗記(悪い暗記)とを、2部類に分けたいと思います。英語を例に取りましょう。学校文法、受験文法という従来の理解不十分で丸暗記した英文法は、英文読解で武器足りえません。ましてや、それで付け焼刃的に、大学入試を幸運にもパスした学生は、大学の語学の授業も苦痛の極み、英語など更に勉強しようなどといった意欲など湧くはずもありません。それに対して、真の英文法を身に付けた、つまり、理解し、納得し、「ああ英文法は面白いものだ!」といった“あは!体験”をして、大学生となった者は、キャンパスでも、更に、英語に磨きをかけよう、TOEIC800点代や英検準1級を目指そうという殊勝な意欲が湧いてくるものです。私などは、浪人して、高校ではまず教えてもたったことをない次元の英文法を予備校で学び、その真の英文法の面白さ、そこから湧き上がる自信のようなものを‘ロイター板’として、フランス語を究めた口でもあります。あの高校時代の、中途半端な英文法だったら、恐らく、運よく現役で大学生になったとしても、フランス語はもちろん、英語すら、今のように、英語を生業にすることはなかっただろうとつくづく思い返されてくるのです。話はそれますが、実は、英文法悪者説、英文和訳余計者説が跋扈する、読み・書き軽視の、現代の風潮は、偽の“英文法”暗記に原因があるのです。
 私は弊塾で、英語の外に、日本史や世界史、古文まで教えられるのは、高校時代の教師のおかげではありません。恩師には失礼ですが、ただの丸暗記授業であったと思います。こうした社会や国語といった科目まで教えられるのは、浪人時代の予備校講師による真の暗記、それを更に、大学生になっても、仏文科以外の、史学科や国文科の講義にも前向きに出席し、自身で購入した古本・新本や図書館の本で、その予備校時代の上に、“知識の増築”をしてきたからです。そして、この”知識の増築”が、教養や知性ともなり、さらに社会人として、思わぬ仕事上の知恵に変貌し、わが身を助けてくれる時もあるのです。この点こそ、羽生さんの言う、「考えることと知識がかみ合い始めた」地点でなのです。
 高校時代の受験の暗記モード、即ち、高校生が予備校の自習室やスタバなどでひたすら暗記に努める姿といったら、甲子園に出場するために猛練習をする高校球児の姿にダブってきてしまうのではないでしょうか?イチローを育てたオリックスの仰木監督、松井秀喜を育てた長嶋監督は特に有名です。しかし、世のお父さん連中、新橋のサラリーマン連中は、次の真実にまで思いを巡らせないことでしょう。イチローにしろ、松井にしろ、彼らがはっきり断言していることですが、「今の私があるのは、愛工大名電の中村豪監督のおかげです」「現在の僕があるのは星稜の山下智茂監督のおかげである」と。英語にしても然りです。大学生、社会人になって英語の、そこそこの使い手として大成する淵源は、極論ながら、高校時代にあると。それは、真の暗記をやってきたか否かにかかってもいるのです。古い事例ですが、戦前、旧制中学というものがありました。そして、誉高い旧制高校という知の鍛錬道場というものがありました。これが、今でいう、大学に該当するのです。この旧制高校から、帝国大学に進学するのは、今でいう大学院進学に該当します。戦前は、旧制中学と旧制高校が、知的教養の接続でいい意味で機能していたのです。今では、高大接続教育の御旗が掲げられましたが、しかし、その美名の下、現代っ子の気質とデジタル社会、そして、大学の機能不全で、恐らく失敗することでしょう。真の暗記を実践した、プチ教養人とも言える新大学生を、括目させる、知的興奮といえば大げさですが、知的発奮を促す授業が、設備ばかりがピカピカのキャンパスに、どれほどありましょうや?
 現代でも、日本中の高校3年生の1~2割程度(※灘・開成から標準の公立高校を含めてのことです)は、真の英文法本物の英語力を身に付けてキャンパスに足を踏み入れているに違いありません。しかし、大学当局は、その数割程度も、スキルを上げさせることもできず(※上げている大学生は自助努力によるものと考えられます)、社会へと送り出しているのです。そこから、今般の‘使える英語’に舵を切った、いわば、センター試験廃止、英検、TOEIC導入などの資格系試験導入へと突き進んでいったわけです。
 本題に戻るとしましょう。高校時代には、真の暗記偽の暗記があると申しあげました。この真の暗記をしてきた高校3年生、いわば、新大学生に、再度、‘知の井戸’を掘る気力、気概を大学当局が授ける努力・工夫を求めたいのですが、それは、夢のまた夢しょうか?(つづく)

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