カテゴリ

HOME > コラム > AI社会に中等教育(中学高校)はどう向き合うべきか?

コラム

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

AI社会に中等教育(中学高校)はどう向き合うべきか?

 AI(人工頭脳)が将来の仕事を一定程度奪うとされている中で、人間が磨くべきはAIが不得手な読解力、コミュニケーション能力、理解力という。「AIvs.教科書を読めない子どもたち」(新井紀子著、東洋経済新報社刊)で知った。▼コンピューターが数字の仕組みを基礎にしている以上、統計と確率、方程式のような厳格な論理の三つで膨大な物事をこなせる。しかし、「意味」は分からない。「私は岡山と広島に行った」と「私は岡田と広島に行った」の違いを認識するのが苦手という。▼人工知能による翻訳も、大量の例文を詰め込み、確率として言葉を組み合わせて文章にしている。その確率が飛躍的に高くなり、性能も上がった。▼国立情報学研究所教授で数学者でもある新井さんは、6年前に始めたプロジェクト「ロボットは東大に入れるか」で、AIに対抗しうる読解力を持つ人間が育っていないこと気づいた。中高生の多くが教科書の文章を正確に理解していない、という。▼意味を理解しない東大ロボットは一定レベルの大学に合格できる偏差値にまで達した。では、人の読解力をどう向上させるのか。処方箋はまだない。しかし、教育現場の危機感は強い。「対面」「少人数」が鍵だと思うが、皆さんはどうだろう。{神奈川新聞 照明灯コラム 2018・12・21より}  下線太字は筆者による
 
 今や、電車の中を見渡すと、スマホを見つめている乗客が8~9割です。サラリーマンは職場では、大半がパソコンと向き合い、中高生や大学生は、自宅では、テレビより、大きな画面のパソコンでユーチューブにかじりついている光景が想像されます。社会人は新聞を購読せず、学生は読書をせず、デジタルの世界に支配されています。ある意味‘毒され’てもいるといって過言ではないかと思われます。地上波のテレビ局、新聞社や出版社が斜陽産業となるのは、古今東西を問わず必定であります。実は、こうしたデジタル度が高い人間にかぎり、フェイクニュースに惑わされる傾向が強いと私は日ごろ思ってもいるのです。つまり、譬えていえば、クレジットカード、スマホ財布、スイカ、銀行口座、ウォークマンなどのすべての機能をスマホにぶち込んで、‘これ一つで、全てOKね!’とほざいている大衆は、それを紛失した時の危機の大きさに想像を巡らせられていないこと、言いかえると、情報の収集源としてのツールが多角化していない盲点的欠点のことです。今中国は、全てこの一台のスマホ化社会へと変貌を遂げつつありますが、中国共産党にとって、この方が政治的に都合がいい、また、中国人民も‘世の中、便利で豊かであれば、思想的信条は口封じされても構わない’と考えてもいるのでしょうか、政府の情報一本化による思想統制と人民の自由度より繁栄を望む方向性が一致しているから成立してもいるのです。“自由な狼(餌を自分で見つけねばならない動物)よりも不自由な犬(餌を主人にある程度与えられる動物)”を中国人民は望んでいるともいえましょう。中国人に「太った豚になるよりも痩せたソクラテスになれ(東大の或る学長の言葉)」とい名言は死語に等しい、いや、‘コスパ思想’に染まった日本でも同じようなものです。中国、ロシア、アメリカなど独裁者が跋扈する国の、そうした指導者を支持し、それを選ぶ国民は、デジタル度が非常に高い、つまり、スマホオンリーで生活している人々です。アナログツールの大切さを私は言いたいのです。
 以前にも語ったことですが、学校の、語学の、様々な参考書は、40年前、20年前、10年前と、完全に、分かりやすく、内容も改善され、目を見張るほど進化して、「ああ、私が高校生だったときに、こんなのがあったらなぁ!」と思うような英語の学習参考書や語学教材など山のように書店には並んでいます。しかし、これは、一般の中等教育の教師や大学の講師・教授が、TOEICやTOEFLがこれほどメジャーになってきている日本で、一般的な大学生の総合的な英語力が落ちてきているといった指摘がある現実をどう解釈するのか、それは、言わずもがなですが、“世界で一番わかりやすい~”“超理解しやすい~”といった枕詞がついている語学教材、また、何度でも見返すことのできるDVD授業、また、スマホなどによる映像授業といったものが、生徒の学習能動性を蝕んでいるといったら言い過ぎではありませんが、一理あるかと思います。これは、私の個人的見解でもありますが、いついかなる時でも、男女が連絡を取り合える情報化社会が、むしろ恋愛を成立させずらくさせ、恋人のいない若者の増大、男女の晩婚化などの遠因にもなっていると思うのです。郷ひろみの歌のフレーズですが、「会えない時間が、愛育てるのさ♪」これと逆方向に恋愛のべクトルが向いているのです。勉強への熱意も似たような節があるものです。「ああ、今は時間があるから、ちょっとスマホの見放題英語のサプリでも、スタバで見てみるか」「今日は、部活が中止になったか、そうだ、帰りに東進ハイスクールのまだ見ていないDVD授業の箇所を見てみるか」こんな心根の高校生は多いかと思われます。「活字は苦痛だ、映像は楽だ」といった現代っ子のメンタルが透けて見えてきます。禅でいうところの“一期一会”を見失った社会の結路でもあります。
 アニメ社会の悪しき側面もありますが、読書より映像で学習しようとする気質、これは、場末のパン屋さんや洋菓子店、酒屋さん、総菜屋さん、いわゆる、何々屋さんといった類の昭和の良き時代にあった個人商店が、コンビニ(スマホ)や大型スーパー(パソコン)により、絶滅危惧種になりつつあるのと傾向は同じであります。実は、こうした気質は、現代社会では、AIに飲み込まれてしまう傾向が非常に強いといってもいいかと思われます。
 よく耳にする言葉ですが、スマホ断食、ゲーム断食、パソコン断食などなど、デジタル中毒者が、中学生から社会人にかけての、一種、文明病でもあるのは、世界共通の認識です。こうした私の懸念は、東北大学教授の川島隆太氏の『スマホが学力を破壊する』(集英社新書)をお読みになられれば、決して杞憂ではないことは明白です。
 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)『なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館に行くのか?』(光文社新書)『世界のビジネスエリートが身に付ける教養としてのワイン』(ダイヤモンド社)など、昨年は、そうした類のヒットした書籍がありました。ペーパーレス化、デジタル化してゆく社会では、それは文明の新幹線、また、航空機に搭乗しているようなものです。ですから、地方のローカル線や路線バスの旅といった、一種、アンチデジタル的アナログ番組が静かに支持もされているのです。文明はデジタルです。文化はアナログです。もちろん、eスポーツのカリスマ、無人AI技術開発の天才研究者は、新幹線や航空機に乗ってもいいのです。しかし、9割以上は、各停もしくは急行の電車や高速バス、路線バスが自身の気質や資質に合致しているのです。この点をお忘れになっている親御さんがまことに多いと言えます。何度も申し上げますが、今年の“がっちりマンデー”(TBSの番組)の新春企画、名物社長にご登場願うシリーズです。ニトリの社長、星野リゾートの社長、日本酒獺祭の社長などなど、にぎやかに番組を盛り上げ、最後に自身の書棚を紹介する場面がありました。「ああ、やっぱりね!」と思ったものです。成功する社長は、どんなに忙しくても、本と向き合う時間を大切にしているのです。そういえば、昔、テレビ東京の“日経ビジネスサテライト”という夜の経済に特化したニュース番組のコーナーにも“スミスの本棚”という企画がありました。経営者・文化人・俳優・作家などが1冊の本というテーマで、これこそ‘私の一冊という書籍’の紹介をする番組でもありました。それは、今では、書籍化もされています。
 AIは、デジタルの権化(化け物・モンスター)です。それに対抗するのは、デジタル度で競っても惨敗です。でしたら、アナログ度で勝負するしかないのです。月並みなアナログ度ではありません。凡庸なるアナログ人間では駄目ということです。真のアナログ人間を目指す、しかし、デジタル度は、ほどほどにして、知性はもちろん、感性を磨き、教養を深めることです。それは、読書をし、芸術や音楽などに様々なアンテナを張りめぐらせることでもあるのです。以前、「AIに哲学はできるか?」とか「AIに名曲は書けるか?」といったテーマで某新聞のあるコーナーで取り上げられてもいたことが印象的です。
 AIに勝とうなどとは、馬と徒競走したり、牛と綱引きをするようなものです。そうしたAI(家畜)をどう御するか、その資質を養うことが、中等教育で一番求められていることです。
 田中角栄元総理大臣は、“コンピューター付きブルドーザー”と異名をとりました。それは、こういうことです。彼自身は、尋常小学校しかでていない、今太閤ともよばれた政治家です。しかし、彼は、人間というものの正体を骨の髄まで知っていた。ある意味、アナログの権化の政治家(※人たらしとも言います:いい意味・悪い意味の両義です)です。しかし、彼は、東大卒のエリート官僚を、自在に操っていたことです。それに思いを巡らすと、人間=アナログというプリンシプルを失わない限り、AI=デジタルの台頭など恐るるに足りずなのです。そうした覚悟・自信を持つ親御さんこそが、デジタルの大雨、洪水の中、我が子を‘自然淘汰’の勝ち組にする気概を植え付けられもするのです。
 これほどAIという存在が、世の人々の意識に台頭する前は、コンピュータやパソコンといったITツールを使いこなせるか否かで社会の勝ち負けが決まるという意味でもあったのでしょう、デジタルディバイドという言葉が流行りました。AI社会では、デジタルディバイドという言葉は、死語、いや無力化しつつあります。はっきり断言します。これからは、アナログディバイド社会が来ると。便利さというデジタル社会で、意識的に、痩せ我慢・へそ曲がり・天の邪鬼、これらをプリンシプルとし、本と向き合う時間を持ち、音楽や芸術を身近にした生活を送っている人間こそ、AIというモンスターに抹殺されずに済むということを強調しておきたいと思います。
 リクルートから、日本で初めての民間校長、杉並区立和田中学校の校長を務められて、今、教育改革実践家という聞きなれない、ユニークな肩書をもつ藤原和博氏の書物『本を読む人だけが手にするもの』(日本実業出版社)の中に、次のようなフレーズがあります。
 
  《これから先の日本では、身分や権力やお金による“階級社会”ではなく、「本を読む習慣がある人」と「そうでない人」に二分される“階級社会”がやってくるだろう》
 
 因みに、この藤原和博氏の教育というものに対しての見識・洞察、いや、大局観といってもいいかと思いますが、それは、林修氏と尾木直樹氏を足して、2,3倍した力量の持ち主であることを付け加えておきたいと思います。

< Prev  |  一覧へ戻る  |  Next >

このページのトップへ