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金八先生や尾崎豊がくだらなく見えた十代

 私が高校生の頃、三年B組金八先生という番組が始まった。今や参議院議員として活躍されてもいる三原順子や‘たのきんトリオ’{田原俊彦・近藤真彦・野村義男}、そして鶴見辰吾と杉田かおるなどが出演したTBSドラマである。思春期の様々な問題をテーマとして、また、校内暴力なども加味されていたと記憶している。こうした番組内容は、その後、バラエティー番組などで知ったストーリーでもある。その当時、こうした思春期の様々な問題なんぞは、我知らず、我関せずでもあった。そんな巷の同学年の悩みなんぞは、「あっしには関わり合いのねぇこって!」といった木枯し紋次郎的、ニヒルの目線で遠くからで眺めてもいた。そんなといったら当時の同世代人には失礼だが、そんな思春期に共通の悩みなんぞは、自身の人生上の悩みとは一切交差すらしない次元のものでもあったからである。
 
 私は、十七で老けていた。十七で、自殺や不良といた道など思いもよらなかった。十七で、明日目覚めたら、孫と一緒に、縁側でまんじゅうとお茶でもすすって、ふざけ合っている老後の日常光景、それが、理想であり、夢でもあり、希望でもった。十七で、老成していたのもかもしれない。
 
 そうしたジジイ的目線で、同世代、同時代を眺めていたのも、自己分析すれば、やんちゃ精神、いたずらっこ気質が、国語というコンプレックス科目から、文学という世界に、中学浪人時代に、片足を突っ込み、その洗礼をうけてしまったことが原因のようでもある。これは、ひとえに、芸人の世界やミュージシャンの世界で該当する人生上の法則でもあるのだろうが…。
 
 駿台予備校の浪人時代である。その系列の学生寮にいた時である。数名が、部屋内に尾崎豊の週刊誌の記事や軽い写真(ポスター擬き)を貼っている連中がいた。その曲も、遠巻きに聞こえてもきた。その記事には、「若者の教祖」という文字が、いやに印象深く目に焼き付いてもいる。その後、大学生になり、社会人になり、彼の死後、彼を若者のカリスマとして祭り上げる風潮や、彼の楽曲への高評価など、「盗んだバイクで走りだす♪」(卒業)「夜の校舎窓ガラス壊してまわる♪」(十五の夜)こうした歌詞は、想像的共感はできるものの、リアルの共感はできぬ気質が、自分にはあり、本来の、同世代の若者とは、感性や資質が、どうも違うのではないかと自覚されもした。
 
 学校や社会、また、体制といったものへのプロテスト、それが、自身には、芽生えてこない習性がどうもあったらしい。こうした気質を、その後ジャーナリスト筑紫哲也は、新人類とネーミングしたと記憶している。また、集団や組織への不適応、拒絶反応、息苦しさといったものが、一匹狼的気質がそうもさせているのであろうか、非学校教諭、非会社員、非予備校講師、つまり、自身が全責任をも負う、フリーランス的、個人塾という自由業(※実際は個人経営の法人だが)へと私をいざなったのかもしれない。
 
 金八先生にも共感せず{※クールに同感する程度!}、尾崎豊の歌詞、そして生き様にもかぶれず{※メロディーはいいのもある!}、ヘビメタやハードロックやパンクといった音楽にも全く魅力を感じない気質は、社会を変える知恵よりも自己を変える智慧というものを第一の信条としている性格に存するといえる。また、社会の世論というものを信じてもいない、その世論の洗練されたもの、即ち、輿論というものを重視している人間でもある。こうした人間を、中島岳志流に言うと、リベラル保守ともいうそうだが、どうも、その毛色とも違うようである。
 余談だが、知恵と智慧とは全く違うものであり、世論と輿論も同様である。戦後、福田恆存が、提起した国語問題、常用漢字制限政策が、日本人の思考を平板化、単純化してしまったようである。
 私のモットーは、健康的不良児{明るく暗い}、不良的健康児{暗く明るい}~矛盾するようだが、これが人生で大切である。夜と昼があるように!~であらんとすることでもある。かっこよくいえば、アウトサイダーでもある。今や、意見が4割ほど食い違う人間ともなってしまったが、ある意味、ある側面、“橋下徹”的でもある。彼には、今でも、ちゃめっけ、わんぱくといった雰囲気が立ち込める。明るくもある。
 
 「元気あれば何でもできる」とはアントニオ猪木の日ごろの弁でもあるが、私流にいわせてもらえば、「明るくあれば何でもできる」である。「笑う門には福来る」これは、私のビジネス次元での応用格言とも解釈している。笑う患者の方が、回復力がある、また、強いともいうではないか。

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