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コラム
部活動の存在意義とは?
中学、そして高校の部活動というものについて、従来指摘されてきた観点とは別の切り口で考えてみたい。
近年、名古屋大学の内田良教授による調査研究{『部活動の社会学』(岩波書店)・『学校の部活動と働き方改革』(岩波ブックレット)}からも、中等教育における部活動は、ある意味で、教員にとってブラック職場化の大きな要因になってもいるという。意地悪な見方であるが、中等教育の部活動とは、サービス残業に基づいた、初等教育の学童のようなものとも言っていい。“放課後の子守り”である。午後3時に授業が終わり、4時から6時あたりまで、両親が共働きの家庭では、何かと、その数時間が悩みの種でもある。塾や予備校族といったお勉強派以外、まず、標準的な中高生は、部活にでも帰属していなければ、歓楽街、繁華街にくりだしたり、よからぬ連中とよからぬ遊びにでも染まるのではないかと、親は何かと気がかりでもあろう、その予防措置として、日本社会は、この部活動が市民権を得たと、私流の解釈である。また、学校により、この部活動にはいることを義務付けもしているところが大半ともいう。ここが、私には解せぬ点である。部活動強制校の存在である。
また、生徒側からからすれば、とりわけ、勉強嫌い、将来的にスポーツ系で生きていこう派などにとっては、高卒の単位を取る、“裏ルート”でもある。彼らは、フィジカル面で天賦の才があるものである。足が速いとか、長距離走を何とも思わない、また、球技への抜群の運動神経の良さなどが挙げられる。
こうした、学校における部活動は、土日や休日にも、現場教師の自己研鑽、教材研究、自身の家庭サービスすらままならない状況へと追い込んでいる。ブラック職場とされる所以でもある。
さて、こうした日本独特の部活動というものが、何故存在するのか。その理由は、私流に言わせていただくと、生徒の社会化のツールであるという点に存する。
学校とは、子どもから少年少女へと成長する過程で、その生徒に勉学を教えるのはもちろんだが、社会化する役割をも担っている。集団生活における、自己の個性、敢えて言うが、子供らしら、わんぱくさ、やんちゃさ、こういったものを封印する機関、それが学校というシステムでもある。この学校という組織の中に“マトリョーシカ的”に、更に、部活動というシステムも存在する。この部活動も、別の意味で、生徒の社会化である。学校は、嫌な連中、むかつく教師、馬の合わない同輩など、そいつらとの人間関係の、組織内の、未成年の世渡り術の入門編を身に付ける修練の場でもある。一方、部活動は、スポーツにしろ、文化系活動にしろ、同じ目的・趣向を共有する連中と放課後、毎日、数時間同じ空間で過ごし、社会性というものを無意識に身に付けてもゆく、いや、強化してゆく“結”の共同体でもある。
この学校というシステム、そして、部活動という取り決めは、生徒の社会化にダブルの力が働いてもいる。いわば、学校の授業と部活動とは、社会化の“二重同盟”のようなものであり、社会化の“再保証条約”のようなものでもある。従順なる若者を養成するための、文科省か学校当局か、はたまた、戦前の教育の亡霊かは存ぜぬが、日本社会における、年功序列・終身雇用に適応する、家畜ならぬ、社畜的気質を有する大学生予備軍を多数育成する、最後の砦でもあったのが、この日本社会の学校部活動でもある。
中学生は、部活動で秀でたものは、特に、スポーツ系では、推薦で、知名度のある高校へと進むことができる。その点、文科系は、稀でもある。高校生は、野球、サッカーなどスポーツが抜きんでる者は、そこそこの有名大学へと進める。その点、文科系は、まず、藝大、音大、美大にしろ、学校の部活動による資質の成長によるものではなく、個人、その家庭の経済的余力による文化資本がものをいう領域である。この点、部活動とは、中等教育において、まず、スポーツ系で問題点を絞る必要がある。
中学でやってきたスポーツを高校生で続ける者は多い。しかし、高校生でやったスポーツを大学生にまでなって継続する者は極少数派である。スポーツ推薦で、就活などできないからだ。そういう現実というものがある。
大学で野球やラグビーなどやる連中は、そのスポーツの天賦の才に恵まれ、しかも、モチベーションと仲間や監督にも恵まれてきた種族である。大学で、陸上など継続する箱根駅伝に出場するアスリートは、まず、その典型でもある。
大学生にまでなって、スポーツをやっているその存在意義は、その組織における社会性が、二重丸で担保されている証でもある。だから、体育家系は、大企業では、引っ張りだこなのである。中学や高校から大学までその競技を行ってきた才能は二の次である、そのスポーツへの忍耐力、それも認知されていよう、それ以上に、企業内における社会性といったものが一番目をつけられている。恐らく、体育系は、営業職で潰しが効く、離職率が低い、上司に命令に従順など、様々な要件が、企業幹部を惹きつける。絶対的社会性、その個性が輝いてもいるからである。
こうした、特に中等教育における部活動の存在意義とは、大方、思春期の社会性、協調性、それを同族目的として、放課後、育成してゆく装置でもある。そういった観点から、その体制派である部活動からはみ出した、“帰宅部”という存在を次回語ってみたい。(つづく)
近年、名古屋大学の内田良教授による調査研究{『部活動の社会学』(岩波書店)・『学校の部活動と働き方改革』(岩波ブックレット)}からも、中等教育における部活動は、ある意味で、教員にとってブラック職場化の大きな要因になってもいるという。意地悪な見方であるが、中等教育の部活動とは、サービス残業に基づいた、初等教育の学童のようなものとも言っていい。“放課後の子守り”である。午後3時に授業が終わり、4時から6時あたりまで、両親が共働きの家庭では、何かと、その数時間が悩みの種でもある。塾や予備校族といったお勉強派以外、まず、標準的な中高生は、部活にでも帰属していなければ、歓楽街、繁華街にくりだしたり、よからぬ連中とよからぬ遊びにでも染まるのではないかと、親は何かと気がかりでもあろう、その予防措置として、日本社会は、この部活動が市民権を得たと、私流の解釈である。また、学校により、この部活動にはいることを義務付けもしているところが大半ともいう。ここが、私には解せぬ点である。部活動強制校の存在である。
また、生徒側からからすれば、とりわけ、勉強嫌い、将来的にスポーツ系で生きていこう派などにとっては、高卒の単位を取る、“裏ルート”でもある。彼らは、フィジカル面で天賦の才があるものである。足が速いとか、長距離走を何とも思わない、また、球技への抜群の運動神経の良さなどが挙げられる。
こうした、学校における部活動は、土日や休日にも、現場教師の自己研鑽、教材研究、自身の家庭サービスすらままならない状況へと追い込んでいる。ブラック職場とされる所以でもある。
さて、こうした日本独特の部活動というものが、何故存在するのか。その理由は、私流に言わせていただくと、生徒の社会化のツールであるという点に存する。
学校とは、子どもから少年少女へと成長する過程で、その生徒に勉学を教えるのはもちろんだが、社会化する役割をも担っている。集団生活における、自己の個性、敢えて言うが、子供らしら、わんぱくさ、やんちゃさ、こういったものを封印する機関、それが学校というシステムでもある。この学校という組織の中に“マトリョーシカ的”に、更に、部活動というシステムも存在する。この部活動も、別の意味で、生徒の社会化である。学校は、嫌な連中、むかつく教師、馬の合わない同輩など、そいつらとの人間関係の、組織内の、未成年の世渡り術の入門編を身に付ける修練の場でもある。一方、部活動は、スポーツにしろ、文化系活動にしろ、同じ目的・趣向を共有する連中と放課後、毎日、数時間同じ空間で過ごし、社会性というものを無意識に身に付けてもゆく、いや、強化してゆく“結”の共同体でもある。
この学校というシステム、そして、部活動という取り決めは、生徒の社会化にダブルの力が働いてもいる。いわば、学校の授業と部活動とは、社会化の“二重同盟”のようなものであり、社会化の“再保証条約”のようなものでもある。従順なる若者を養成するための、文科省か学校当局か、はたまた、戦前の教育の亡霊かは存ぜぬが、日本社会における、年功序列・終身雇用に適応する、家畜ならぬ、社畜的気質を有する大学生予備軍を多数育成する、最後の砦でもあったのが、この日本社会の学校部活動でもある。
中学生は、部活動で秀でたものは、特に、スポーツ系では、推薦で、知名度のある高校へと進むことができる。その点、文科系は、稀でもある。高校生は、野球、サッカーなどスポーツが抜きんでる者は、そこそこの有名大学へと進める。その点、文科系は、まず、藝大、音大、美大にしろ、学校の部活動による資質の成長によるものではなく、個人、その家庭の経済的余力による文化資本がものをいう領域である。この点、部活動とは、中等教育において、まず、スポーツ系で問題点を絞る必要がある。
中学でやってきたスポーツを高校生で続ける者は多い。しかし、高校生でやったスポーツを大学生にまでなって継続する者は極少数派である。スポーツ推薦で、就活などできないからだ。そういう現実というものがある。
大学で野球やラグビーなどやる連中は、そのスポーツの天賦の才に恵まれ、しかも、モチベーションと仲間や監督にも恵まれてきた種族である。大学で、陸上など継続する箱根駅伝に出場するアスリートは、まず、その典型でもある。
大学生にまでなって、スポーツをやっているその存在意義は、その組織における社会性が、二重丸で担保されている証でもある。だから、体育家系は、大企業では、引っ張りだこなのである。中学や高校から大学までその競技を行ってきた才能は二の次である、そのスポーツへの忍耐力、それも認知されていよう、それ以上に、企業内における社会性といったものが一番目をつけられている。恐らく、体育系は、営業職で潰しが効く、離職率が低い、上司に命令に従順など、様々な要件が、企業幹部を惹きつける。絶対的社会性、その個性が輝いてもいるからである。
こうした、特に中等教育における部活動の存在意義とは、大方、思春期の社会性、協調性、それを同族目的として、放課後、育成してゆく装置でもある。そういった観点から、その体制派である部活動からはみ出した、“帰宅部”という存在を次回語ってみたい。(つづく)
2022年10月 3日 17:33