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コラム
余は如何にして帰宅部となりしか(前半)
余は如何にして帰宅部となりしか?
個人的経験則で、この帰宅部に入ってしまうという、あまりはっきりとしない動機といったものを語るとする。
小学校時代、部活動なるものは存在しなかったが、一応、好きなクラブはあったように記憶している。私の場合、小学校の校内生活よりも、帰宅後のパン工場の職人さんや従兄姉の人々と遊ぶ方が断然楽しかった。同年代の連中と遊ぶ、学校の放課後の課外活動なるものは、学芸会・運動会の準備しろ、また、集団生活なるものには馴染めなかった。むしろ、学校で野球をやるよりも、自宅近辺の町内会の子供リーグのような場で野球をしたり、従兄から野球を教わったりしていた。小学校3、4年の2年間は、H先生という女性の担任から目をつけられ、いたずらっ子気質が、学校という場を、どうも窮屈にしていた勘が否めない。言い方は、手前味噌すぎるが、アルプスの少女ハイジが、学校という場では、はみだし者扱いされる、自由という個性が、社会というシステムでは息苦しくて仕方がない事実と似て非ではない。彼女は、どうも私のわんぱく気質が気に入らなかったようで、そこから、人格否定までするような雰囲気を漂わせ、ミセスお堅い女性先生の典型のような人でもあった。地元でも有名なパン屋の倅として、また、いたずらっ子気質の目立つ、勉強ができない(?)、勉強嫌いな(?)パン屋・ケーキ屋の三代目として、そのH先生に目をつけられてもいたのであろう。つまりは、私の小学生時代は、学校の場より、それ以外に活動の場がわくわくする世界があったということが、クラブ活動から引き離してもいたようである。
次は、中学校時代である。この時期は、越境入学、別名、寄留通学していた。公立中学でありながらも、都立の名門校や、早慶附属系など多数合格者を輩出する、一種、下町の名門中学にバス通学していた。この中学校は、中学受験で失敗した者(※私もそうだが)たちの捲土重来の鍛錬の場でもあった。開成や麻布に落ち、また、早慶の附属中学に行けなかった者が、住民票を移動し、この墨田区の中学に通ってくる猛者の巣窟でもあった。また、リベンジの場でもあった。もちろん、地元の下町工場や中小企業の息子といった秀才も多数いた。今ではそういった面影や校風は、少子化もあり、一切なくなったようである。その当時は、麹町中学校、今川中学校、久松中学校など、都内にあれこれあったものである。今でも千代田区の麹町中学校、文京区の第六中学校、そして我が故郷江戸川区の清新第一中学校などが名門御三家として君臨している。その当時は、私の母校の錦糸中学校も両国中学校と同様に、下町の名門区立中学校として名を馳せていた。
その中学校に入学して半年で気づいたことだが、この中学校の秀才たちは、どうも、台東区と墨田区に3教室ある、日本最古の学習塾、ギネスにも登録されて認知されている島本自習塾なるところに通っている者が多いという事実であった。その当時から、学校の勉強だけでは、よりよい上の学校へは進めぬ現実があったことを思い知らされた。父は、さっそく、その塾に申し込んだが、空きがない、半年、1年待ち、それほど、人気があった、評判の塾でもある。下町にありながら、開成高校や早慶の附属校、もちろん、地元の都立両国高校へわんさか卒業生を送り出し、朝の連続テレビ小説「おていちゃん」で有名になった名女優沢村貞子や青山学院大学の某名物学長など、そうそうたる著名人を送り出してもいた、知る人ぞ知る、下町の名門塾でもあった。
昭和40年代から50年代にかけて、灘中に多数合格者を出した入江塾など関西では有名でもあった頃、この島本自習塾は、高校受験で、東京の下町で、少し、教育系の情報に明るい人ならば、知らぬ者はいない塾でもあった。若くして亡くなったAV女優飯島愛も、生前、「アド街ック天国」で出演した際、この島本自習塾に言及されて、地元のエリートが通う塾として、憧れの口調で褒めていたことが印象深い。ほとんど、イメージ的には非勉強系の彼女ですら、認知していたことは、その地元での存在感がどれほどのものであったか想像がつく。因みに、彼女は、中一まで勉強ができ、学業が優秀であったとも言われている。
中2の後半であっただろうか、入塾の空きの知らせがきた。実は、中1の半ば、一回空きの連絡が入ったが、自宅から1時間以上もかかる、放課後10時近くまで週数回通う段ともなると、ためらわれた。それから、1年近く後、都バスでの通学生活にも慣れてきた頃、再度の連絡で、入塾を決めた。
越境入学である。それもバス通学である。1時間近くもかかる。部活に入る余裕などない。記憶によると、その中学校では、部活に勤しむ者は、地元の生徒だけであった。中学受験失敗組、外部からの寄留通学者といった秀才は、まず、ほとんど、クラブ(部)に帰属していなかった。一番遠いところでは、総武線沿いでは、津田沼から通ってくる者もいた。快速で錦糸町が便利であったこともあろう。
そういった経緯で、私も、その中学校の部活動などに入る、時間的・体力的な余裕はなかったということでもある。勉学第一、学校生活第二、部活動第三、そういった自分の順位で、帰宅部ともなっていった。
以上が、小学校、そして、中学校までの私の帰宅部の動機である。では、高校時代の帰宅部の理由を次回語ってみたい。(つづく)
個人的経験則で、この帰宅部に入ってしまうという、あまりはっきりとしない動機といったものを語るとする。
小学校時代、部活動なるものは存在しなかったが、一応、好きなクラブはあったように記憶している。私の場合、小学校の校内生活よりも、帰宅後のパン工場の職人さんや従兄姉の人々と遊ぶ方が断然楽しかった。同年代の連中と遊ぶ、学校の放課後の課外活動なるものは、学芸会・運動会の準備しろ、また、集団生活なるものには馴染めなかった。むしろ、学校で野球をやるよりも、自宅近辺の町内会の子供リーグのような場で野球をしたり、従兄から野球を教わったりしていた。小学校3、4年の2年間は、H先生という女性の担任から目をつけられ、いたずらっ子気質が、学校という場を、どうも窮屈にしていた勘が否めない。言い方は、手前味噌すぎるが、アルプスの少女ハイジが、学校という場では、はみだし者扱いされる、自由という個性が、社会というシステムでは息苦しくて仕方がない事実と似て非ではない。彼女は、どうも私のわんぱく気質が気に入らなかったようで、そこから、人格否定までするような雰囲気を漂わせ、ミセスお堅い女性先生の典型のような人でもあった。地元でも有名なパン屋の倅として、また、いたずらっ子気質の目立つ、勉強ができない(?)、勉強嫌いな(?)パン屋・ケーキ屋の三代目として、そのH先生に目をつけられてもいたのであろう。つまりは、私の小学生時代は、学校の場より、それ以外に活動の場がわくわくする世界があったということが、クラブ活動から引き離してもいたようである。
次は、中学校時代である。この時期は、越境入学、別名、寄留通学していた。公立中学でありながらも、都立の名門校や、早慶附属系など多数合格者を輩出する、一種、下町の名門中学にバス通学していた。この中学校は、中学受験で失敗した者(※私もそうだが)たちの捲土重来の鍛錬の場でもあった。開成や麻布に落ち、また、早慶の附属中学に行けなかった者が、住民票を移動し、この墨田区の中学に通ってくる猛者の巣窟でもあった。また、リベンジの場でもあった。もちろん、地元の下町工場や中小企業の息子といった秀才も多数いた。今ではそういった面影や校風は、少子化もあり、一切なくなったようである。その当時は、麹町中学校、今川中学校、久松中学校など、都内にあれこれあったものである。今でも千代田区の麹町中学校、文京区の第六中学校、そして我が故郷江戸川区の清新第一中学校などが名門御三家として君臨している。その当時は、私の母校の錦糸中学校も両国中学校と同様に、下町の名門区立中学校として名を馳せていた。
その中学校に入学して半年で気づいたことだが、この中学校の秀才たちは、どうも、台東区と墨田区に3教室ある、日本最古の学習塾、ギネスにも登録されて認知されている島本自習塾なるところに通っている者が多いという事実であった。その当時から、学校の勉強だけでは、よりよい上の学校へは進めぬ現実があったことを思い知らされた。父は、さっそく、その塾に申し込んだが、空きがない、半年、1年待ち、それほど、人気があった、評判の塾でもある。下町にありながら、開成高校や早慶の附属校、もちろん、地元の都立両国高校へわんさか卒業生を送り出し、朝の連続テレビ小説「おていちゃん」で有名になった名女優沢村貞子や青山学院大学の某名物学長など、そうそうたる著名人を送り出してもいた、知る人ぞ知る、下町の名門塾でもあった。
昭和40年代から50年代にかけて、灘中に多数合格者を出した入江塾など関西では有名でもあった頃、この島本自習塾は、高校受験で、東京の下町で、少し、教育系の情報に明るい人ならば、知らぬ者はいない塾でもあった。若くして亡くなったAV女優飯島愛も、生前、「アド街ック天国」で出演した際、この島本自習塾に言及されて、地元のエリートが通う塾として、憧れの口調で褒めていたことが印象深い。ほとんど、イメージ的には非勉強系の彼女ですら、認知していたことは、その地元での存在感がどれほどのものであったか想像がつく。因みに、彼女は、中一まで勉強ができ、学業が優秀であったとも言われている。
中2の後半であっただろうか、入塾の空きの知らせがきた。実は、中1の半ば、一回空きの連絡が入ったが、自宅から1時間以上もかかる、放課後10時近くまで週数回通う段ともなると、ためらわれた。それから、1年近く後、都バスでの通学生活にも慣れてきた頃、再度の連絡で、入塾を決めた。
越境入学である。それもバス通学である。1時間近くもかかる。部活に入る余裕などない。記憶によると、その中学校では、部活に勤しむ者は、地元の生徒だけであった。中学受験失敗組、外部からの寄留通学者といった秀才は、まず、ほとんど、クラブ(部)に帰属していなかった。一番遠いところでは、総武線沿いでは、津田沼から通ってくる者もいた。快速で錦糸町が便利であったこともあろう。
そういった経緯で、私も、その中学校の部活動などに入る、時間的・体力的な余裕はなかったということでもある。勉学第一、学校生活第二、部活動第三、そういった自分の順位で、帰宅部ともなっていった。
以上が、小学校、そして、中学校までの私の帰宅部の動機である。では、高校時代の帰宅部の理由を次回語ってみたい。(つづく)
2022年10月17日 16:30